概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
門司城は、福岡県北九州市門司区大字門司の和布刈公園内、関門海峡に突き出た標高175メートル(比高約170メートル)の「古城山」山頂部に築かれた山城跡である。本丸からは関門海峡最狭部の早鞆ノ瀬戸や対岸の下関(壇ノ浦・火の山)を一望でき、本州と九州を結ぶ海上・陸上交通の要衝を完全に掌握する天然の要塞であった。山頂の主郭(本丸)を中心に階段状の曲輪群が配され、堀切や切岸、一部に野面積みの石垣跡が残存する。明治時代には関門海峡防衛のため山頂部が旧日本陸軍の「下関要塞門司砲台」として改変されたが、北九州市指定史跡として保護され、現在は和布刈公園の一部として展望広場や散策路が整備されている。
歴史的役割
源平合戦期の元暦2年(1185年)、平知盛が家臣の紀井通資に命じて壇ノ浦の戦いに備え築城させたことに始まる。鎌倉時代には門司氏が拠り、室町・戦国時代には周防の大内氏と豊後大友氏、さらに中国の毛利氏による激しい争奪戦の舞台となった。特に永禄元年(1558年)以降の「門司城の戦い」では毛利元就が城を奪取し、大友義鎮(宗麟)軍による数万の包囲軍を毛利軍(小早川隆景ら)が撃退した激戦地として名高い。豊臣秀吉の九州平定後は毛利氏・小早川氏の手を経て、関ヶ原の戦い後に豊前に入封した細川忠興が重臣・長岡休斎(松井康之)や有吉立行を城代として配置。元和の一国一城令ののち、元和3年(1617年)に廃城となった。
見どころ
関門海峡の潮の流れや関門橋・対岸の下関市街を真下に見下ろす本丸展望台からの大パノラマ、本丸および二の丸周辺に残る切岸地形と堀切跡、一部に確認できる中世石垣の痕跡、明治期に築かれた煉瓦造・コンクリート造の下関要塞門司砲台跡遺構、本丸跡に立つ門司城跡碑および北九州市設置の解説板
ご当地グルメ
城犬のおいど 攻城記録
和布刈公園第一展望台

門司城跡
義経・平家伝説ゆかりの地
徒歩10分


門司城(門司関山城・亀城)
門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させたといい伝えられている。寛元ニ(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向。のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。

親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・全山の5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続いた。その間南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠り、骨肉の争いもあった。

室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり、当城はその渦中におかれた。ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、ちなみに『後太平記』には、「昔、源平両家比処にて軍せしも、時こそ替れ是にはよも勝らし」とその戦況を記している。

その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、一国一城の令により、およそ四百年におよぶその歴史をとじた。
※現地石碑より

倉庫


主郭

城址碑

砲台跡

歌碑

関門海峡


石垣





古城砲台跡








壇之浦合戦壁画
壇之浦合戦の模様を美しい有田焼の陶板で再現した壁画で、義経、教経、二位の尼、安徳帝、建礼門院などが生きいきと描かれています。
※現地看板より

源平壇之浦合戦について
眼下に広がる関門海峡は、一日七百余隻が通貨する国際航路であるが、日本の歴史の中に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。寿永二年(1183年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、長年勢力を争った源氏の木曽義仲に追われ京都を逃れた。

平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、百艘ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地九州の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった、緒方三郎惟義の裏切りにあい、やむなく筑前の大宰府天満宮に入った。しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、

山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。

東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で対峙した。寿永四年(元暦二年、1185年)三月二十四日の卯の刻(午前六時頃)、早鞆(はやとも)の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。四千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じった。

当初平家が優勢とみられたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日十六時ごろ平家の敗北は決定的となった。平清盛の妻で、安徳天皇の祖母二位尼は、もはやこれまでと、御座船から八歳の幼帝を抱いて「浪の下にも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院もこれに続いて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。

帝の母建礼門院もこれに続いて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」五年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。
※現地屏風看板より

和布刈神社
毎年旧暦元日の早朝、3人の神職が烏帽子、狩衣、白足袋に草履姿で干潮の冷たい海に入ってワカメを刈る神事。刈り取ったワカメを神前に供え、航海の安全や豊漁を祈願することで知られている神社です 。また、神社前に細川忠興が寄進した灯籠があります。

和布刈砲台跡(門司砲台)
長州藩による要求を受け、江戸時代末期(幕末)に小倉藩によって築造され、関門海峡の防備のために設けられた砲台の一つである。

2026/3最終訪問