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100名城・続100名城 -
別称 山鹿城跡、城山
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 41.4m
最終訪問日 2026-03-08

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式
築城者山鹿秀遠
築城年平安時代末期
廃城年天正年間
主な城主山鹿氏、麻生氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:41.4m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

山鹿城は、福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿の響灘および遠賀川河口を眼下に見下ろす標高約67メートル(比高約60メートル)の独立丘陵「城山」山頂部に築かれた中世山城跡である。響灘航路と遠賀川水運が合流する水陸交通の要衝に占地する。山頂の主郭(一の郭)を中心に、南北に連なる尾根沿いに階段状の曲輪群が配され、尾根筋を遮断する堀切や切岸、土塁状の高まりが残存する。平成期の発掘調査では山頂部から中世の掘立柱建物跡の柱穴や土坑、輸入陶磁器片、土師器皿等が出土し、平安末期から戦国期にかけての長期にわたる拠点利用が確認された。現在は地元有志により遊歩道が整備され、山頂には城址碑や解説板が設置されている。

⚔️ 歴史的役割

平安末期、遠賀川流域を統括した有力豪族・山鹿秀遠(菊池氏一族)の本拠として知られる。秀遠は平家方として水軍兵力を率いて壇ノ浦の戦いなどで源氏軍に対抗した。鎌倉時代以降は、筑前国遠賀郡に勢力を伸ばした有力国人領主・麻生氏の支城となり、遠賀川河口の港湾都市・芦屋津の経済的権益や海上交通路を掌握する拠点城郭として機能した。戦国時代には宗像氏や大内氏、大友氏、毛利氏の抗争に伴い前線監視・防衛拠点として活用されたが、天正年間の大友氏衰退や秋月氏・島津氏の勢力拡大、その後の豊臣秀吉による九州平定および宗像氏・麻生氏の没落・改易に伴い役目を終えて廃城となった。

👀 見どころ

響灘と遠賀川河口・芦屋市街を一望する標高67m山頂主郭からの展望、主郭周囲を取り巻く鋭利な切岸地形、尾根筋を断ち切る堀切および空堀遺構、山頂に建つ山鹿城跡記念碑および芦屋町設置の解説案内板、山麓の山鹿郵便局付近から整備された登城遊歩道

🍲 ご当地グルメ


城犬のおいど 攻城記録


城山公園


秋山光清歌碑


白山神社


腰曲輪


主郭


二の丸


城址碑


山鹿城は朱雀天皇の天慶年間鎮西奉行藤原の俵藤太秀郷の弟藤次によって築城され、以後代々山鹿氏の居城となり、年を経ること二百四十年山鹿兵藤次秀遠が城主となった。寿永二年七月(西暦一一八三年)源氏に追われた平宗盛は、幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ち、さらに同年九月に太宰府を逃れる。

此の時城主秀遠は一身の盛衰を顧りみず尊王の大義を体して安徳天皇を迎え、この城にこもり一意専心天皇の為に忠勤を励んだ。元暦元年(西暦一一八四年)秀遠は平氏と共に屋島に出陣し忠烈むなしく戦に破れ、壇之浦において山鹿氏は滅亡するに至ったのである。山鹿氏滅亡の後は代々麻生氏の居城となった。秀遠●安徳●到●州八島●當内裏此時九州四国群将●背平氏唯秀遠霊力戦平所所 山鹿素行筆「山鹿家諸」に
※現地城址碑より
一部読み取れない箇所あり

2026/3最終訪問


🧭 周辺10km圏内の城郭(7城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR鹿児島本線折尾駅北口から北九州市営バス(芦屋行)で約25分「山鹿郵便局前」下車、登城口まで徒歩約5分、山頂主郭まで山道徒歩約10分(またはJR折尾駅から芦屋タウンバス等利用)

車でのアクセス

九州自動車道 鞍手ICから県道経由で北へ車で約25分、または若戸減道・北九州都市高速黒崎出入口から車で約25分

駐車場

有(山鹿地区公民館・城山登山口前駐車スペース、無料約5台)

📍 周辺地図

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「筑前 山鹿城」への1件のフィードバック

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