概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
関戸城(せきどじょう)は、東京都多摩市桜ケ丘一丁目に所在する多摩川南岸の標高約135メートル(比高約65メートル)の多摩丘陵突出尾根頂部に築かれた中世山城・要害砦跡である。古代・中世の要衝「霞ノ関」を眼下に見下ろす要害地に位置し、鎌倉末期の関戸合戦(新田義貞軍と鎌倉幕府軍の激戦)で築かれた軍事拠点を起源とし、戦国期には滝山城・八王子城主の北条氏照によって改修された。多摩川と乞田川の開析低地を天然の濠とし、現在の都立桜ヶ丘公園「天守台」広場を主郭(本丸)として尾根沿いに段状の曲輪群を連郭・梯郭状に配置。主郭背後の尾根筋を断ち切る堀切(空堀)跡、主郭周囲を取り巻く土塁、斜面を急峻に削り落とした威圧的な切岸、谷戸部の湧水井戸跡が残る。現在は公園整備と住宅地化が進むものの、天守台周辺に中世城郭の削平地と防衛地形が良好に遺存する。
歴史的役割
多摩川を渡る鎌倉街道(上ノ道)の最重要関門「霞ノ関」を直下で扼し、府中(武蔵国府)と鎌倉・相模方面を連結する交通・軍事動脈を監視・封鎖する戦略拠点として機能した。元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いに続く関戸の戦いでは北条泰家率いる幕府軍が陣を布いて激戦を展開。戦国時代後期には後北条氏の支城網に組み込まれ、北条氏照が八王子城・滝山城から多摩川流域防衛ラインを構築するにあたり、東方の江戸城・世田谷城・小机城方面を中継・監視する烽火砦・国境監視台として活用された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、前田利家・上杉景勝ら率いる北方軍の進軍と八王子城落城に伴い開城・廃城となった。古代官道・中世鎌倉街道の支配から戦国争乱の終焉まで、東国軍事史の重要画期を見届けてきた名城砦である。
見どころ
都立桜ヶ丘公園内に遺存する「天守台(主郭・本丸跡)」の削平地および尾根筋に連なる「曲輪群」の平坦面遺構、主郭背後の尾根続きを遮断する「堀切」および「空堀」痕跡、主郭縁辺部に残る防衛用の「土塁」および多摩川低地へ向けて急峻に削り落とされた「切岸」、谷筋の湧水・生活水源の「井戸跡」、天守台に設置された「天守台(関戸城跡)」の石柱標柱および公園案内板、主郭展望広場から見晴らす多摩川流域・府中市街地・新宿副都心・秩父連峰のパノラマ絶景、山麓に位置する国史跡「霞ノ関跡」や新田・北条両軍の戦死者を供養する関戸古戦場碑(延命寺・観音寺・かすみ亭周辺)との歴史景観連動
ご当地グルメ
概要・現地案内板
桜ヶ丘1丁目の金毘羅宮(琴平社)付近を「天守台」などといい、一帯の山を「城山」ともいう。
多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙などで知らせる通信拠点であったとも考えられる。
一帯は関戸城跡とされているが、今はわずかにその一部を留めるのみで、山頂は削られ地形も変わっている。
※現地標柱より
城犬のおいど 攻城記録
金毘羅宮(琴平社)
文政年間に関戸の紺屋の井上林蔵が四国より勧請したものとされ、社のある場所は金毘羅山とよばれている。ここにはかつて砦があり、新田義貞軍と北条泰家軍の戦いがあった場所といわと呼ばれる今はないが「物見の松」とよばれる老木があった。
※現地看板より


天守台
元弘3年の新田軍鎌倉攻めの関戸合戦では、一帯が戦場と化し、義貞軍が北条泰家軍を敗走させた後、陣をこの台にすえた跡であることから「天守台」と言われるようになったとも伝えられている。その後は、武蔵野合戦(1252年)、永享の乱(1438年)、明応3年(1494)の戦いなどで多くの軍勢が往来し、長い間要害の地として幾多の戦乱を体験してきた。
※現地標柱より


調布玉川惣画図
江戸時代後半(1845年頃)の天守台


2024/6最終訪問
