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100名城・続100名城 -
別称 古市城、城山、畠山城、高屋要害、高屋城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 47.2m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式
築城者畠山基国(畠山義就、遊佐長教改修)
築城年室町時代前期(応永年間・1394〜1428年頃畠山基国、文明11年・1479年畠山義就大改修)
廃城年天正3年(1575年)織田信長の河内城割り(焼き討ち)により破却・廃城
主な城主畠山氏、遊佐氏、安見氏、三好氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり・空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:47.2m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

高屋城(たかやじょう・別名:古市城)は、大阪府羽曳野市古市五〜七丁目に所在する石川西岸の標高約47メートル(比高約15メートル)の河岸段丘独立丘陵に築かれた中世屈指の大規模城郭跡である。三管領筆頭・河内守護の畠山基国が応永年間に築いた古市城を前身とし、文明11年(1479年)に畠山義就が前方後円墳である高屋築山古墳(現・安閑天皇陵)を本丸として大胆に取り込み、南北約800m・東西約450mに及ぶ大平山城として大改修した。巨大な古墳墳丘と周濠を本丸・水堀とし、南へ二の丸、三の丸を連郭状に配し、深大な空堀と長大な土塁で仕切られた。近年の発掘調査では100箇所以上で礎石建物群、櫓台跡、中国製陶磁器等が出土。現在は本丸部が宮内庁治定の陵墓となり立入禁止だが、周濠(水堀)や二の丸周辺の土塁、堀跡、切岸が住宅街の中に今も明瞭に遺存する。

⚔️ 歴史的役割

室町・戦国期の河内国守護所・政治中枢であり、畿内全域の覇権を左右した最重要軍事拠点として激しい争奪戦が繰り返された。応仁の乱の契機となった畠山総州家(義就)と畠山尾州家(政長)の家督争いの主戦場となり、その後も守護代・遊佐氏や安見直政、畿内を席巻した三好長慶らの間で激しい攻城戦が幾度も演じられた。元亀・天正期には三好康長(笑岩)や遊佐信教が石山本願寺と結んで反織田勢力の一大拠点として籠城。これに対し天正3年(1575年)4月、織田信長が自ら10万の大軍を率いて親征し城下を焼き討ち(高屋城の戦い)。三好康長が降伏・開城したことで信長は城割りを命じ、南河内の軍事的象徴であった名城は廃城となった。古墳を城郭へ軍事転用した極めて珍しい城郭形態の代表例である。

👀 見どころ

本丸としてそのまま城郭中枢に軍事転用された巨大前方後円墳「高屋築山古墳(安閑天皇陵・全長約122m)」および周囲を満たす雄大な「周濠(水堀)」、二の丸跡の姥坂・不動堂周辺に現存する高さ数メートル規模の重厚な「高土塁」および「堀跡」・「櫓台跡」、石川段丘崖を削り落とした威圧的な「切岸」地形、古市街道と城下集落の面影を伝える入り組んだ古道遺構、不動堂横に設置された羽曳野市教育委員会の「高屋城址解説案内板」、大坂夏の陣で激戦地となった近隣の誉田林古戦場跡や薄田兼相墓・世界遺産古市古墳群との歴史景観連動

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

近鉄南大阪線・近鉄長野線古市駅西口から南へ徒歩約10分、安閑天皇陵(高屋築山古墳)拝所および白鳥神社・姥坂不動堂周辺一帯(羽曳野市古市五丁目〜七丁目、石川西岸の河岸段丘独立丘陵一帯、本丸墳丘標高約47m、平地比高約15m)

車でのアクセス

西名阪自動車道 藤井寺ICから国道170号(外環状線)経由で南へ車で約10分、または南阪奈道路 羽曳野ICから東へ約10分

駐車場

なし(古市駅周辺および国道沿いの民間コインパーキングを利用、普通車有料約30台)

📍 周辺地図

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