概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
高屋城(たかやじょう・別名:古市城)は、大阪府羽曳野市古市五〜七丁目に所在する石川西岸の標高約47メートル(比高約15メートル)の河岸段丘独立丘陵に築かれた中世屈指の大規模城郭跡である。三管領筆頭・河内守護の畠山基国が応永年間に築いた古市城を前身とし、文明11年(1479年)に畠山義就が前方後円墳である高屋築山古墳(現・安閑天皇陵)を本丸として大胆に取り込み、南北約800m・東西約450mに及ぶ大平山城として大改修した。巨大な古墳墳丘と周濠を本丸・水堀とし、南へ二の丸、三の丸を連郭状に配し、深大な空堀と長大な土塁で仕切られた。近年の発掘調査では100箇所以上で礎石建物群、櫓台跡、中国製陶磁器等が出土。現在は本丸部が宮内庁治定の陵墓となり立入禁止だが、周濠(水堀)や二の丸周辺の土塁、堀跡、切岸が住宅街の中に今も明瞭に遺存する。
歴史的役割
室町・戦国期の河内国守護所・政治中枢であり、畿内全域の覇権を左右した最重要軍事拠点として激しい争奪戦が繰り返された。応仁の乱の契機となった畠山総州家(義就)と畠山尾州家(政長)の家督争いの主戦場となり、その後も守護代・遊佐氏や安見直政、畿内を席巻した三好長慶らの間で激しい攻城戦が幾度も演じられた。元亀・天正期には三好康長(笑岩)や遊佐信教が石山本願寺と結んで反織田勢力の一大拠点として籠城。これに対し天正3年(1575年)4月、織田信長が自ら10万の大軍を率いて親征し城下を焼き討ち(高屋城の戦い)。三好康長が降伏・開城したことで信長は城割りを命じ、南河内の軍事的象徴であった名城は廃城となった。古墳を城郭へ軍事転用した極めて珍しい城郭形態の代表例である。
見どころ
本丸としてそのまま城郭中枢に軍事転用された巨大前方後円墳「高屋築山古墳(安閑天皇陵・全長約122m)」および周囲を満たす雄大な「周濠(水堀)」、二の丸跡の姥坂・不動堂周辺に現存する高さ数メートル規模の重厚な「高土塁」および「堀跡」・「櫓台跡」、石川段丘崖を削り落とした威圧的な「切岸」地形、古市街道と城下集落の面影を伝える入り組んだ古道遺構、不動堂横に設置された羽曳野市教育委員会の「高屋城址解説案内板」、大坂夏の陣で激戦地となった近隣の誉田林古戦場跡や薄田兼相墓・世界遺産古市古墳群との歴史景観連動
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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