概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
滝野川城(たきのがわじょう)は、東京都北区滝野川三丁目に所在する石神井川右岸の標高約20メートル(比高約10メートル)の武蔵野台地北東縁・舌状段丘上に築かれた中世城郭・居館跡である。武蔵の名族・豊島氏の一族である滝野川氏(または豊島清光の庶子)が構えた要害居館と伝わる。北側を深く蛇行して流れる石神井川の急峻な渓谷を天然の堀とし、現在の金剛寺(紅葉寺)境内から滝野川公園・松石寺にかけて主郭や腰曲輪を連郭・梯郭状に配置。背後を土塁と空堀で区画した堅固な平山城の構えを持つ。市街地化が進んだ現在も、金剛寺境内の社叢や敷地縁辺部に土塁状の微高地、石神井川の渓谷へ向けて切り立った威圧的な切岸地形、谷筋の堀跡の窪地、城内水源の湧水井戸跡が確認される。源頼朝が奥州征伐や鎌倉入りの際に布陣した伝承地でもあり、平塚城とともに豊島郡の要衝を抑えた歴史的城館跡である。
歴史的役割
石神井川水系と旧中山道(中世鎌倉街道奥山道・岩槻道)が交差する陸上・水上交通の要衝に位置し、豊島氏の本拠・平塚城の北西防衛線を担う前線出城として機能した。治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵して下総から武蔵へ進軍した際、豊島清光が武蔵武士団を率いて滝野川の松橋(金剛寺周辺)に出迎え、頼朝が陣を敷いた地として名高い。室町時代後期の享徳の乱から長尾景春の乱にかけては、平塚城・練馬城・石神井城を結ぶ豊島氏支城ネットワークの中継拠点として機能。文明9年(1477年)から同10年にかけての太田道灌による豊島氏討滅戦において、平塚城落城とともに当城も道灌軍の攻撃を受け開城・破却され廃城となった。江戸時代には徳川吉宗の命により石神井川沿いに楓が植樹され、「紅葉寺」「音無渓谷」として名所化。中世武士団の軍事拠点から近世行楽地への変遷を伝える重要遺跡である。
見どころ
紅葉の名所として知られる真言宗名刹「金剛寺境内」の主郭平坦面および石神井川沿いに広がる曲輪遺構、金剛寺境内裏手から敷地縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」状土盛り、石神井川(音無川)渓谷へ向けて垂直近くに切り立つ険峻な「切岸」地形、開析谷沿いに痕跡を留める「空堀(堀跡)」の凹地、境内に残る湧水・生活水源の「井戸跡」、源頼朝が陣を構えた伝説を伝える「松橋弁財天窟」および金剛寺開山伝承の寺宝、北区教育委員会設置の金剛寺・滝野川城館解説案内板、石神井川の渓谷美と春の桜・秋の紅葉が彩る歴史景観
ご当地グルメ
概要・現地案内板
石神井川沿いの金剛寺付近を中心に、この地の名族豊島氏の平塚城の支城であったと考えられる。
文明9年(1477)太田道灌と戦い、本家豊島氏とともに滅亡し、廃城となる。また、源頼朝がかつて鎌倉へ向かう途中、この地に布陣したという伝承がのこっている。
城犬のおいど 攻城記録
金剛寺

源頼朝の布陣伝承地
治承4年(1180)8月、源頼朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れ安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、墨田川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することとなるのです。

この途次の10月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています、松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。
※現地看板より


松橋弁財天洞窟跡

江戸名所図会

緑地公園


2021/12最終訪問
