概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 水堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
新津城(にいつじょう)は、新潟県新潟市秋葉区山谷町一丁目に所在する能代川(新津川)右岸の越後平野・自然堤防微高地(標高約8メートル)に築かれた中世平城(居館)跡である。通称「山谷城」「新津館」。応永年間に信濃源氏の流れを汲む金津氏の一族・新津資直がこの地に館を構え、新津氏を称したことに始まる。本丸跡と伝わる現在の日吉神社を中心に、二の丸や家臣屋敷地を配し、周囲に幾重もの堀(能代川水系を引き込んだ水堀)と土塁を巡らせた平城構造を持つ。平時の居館・政庁として機能し、有事の詰城である背後の東島城(城ヶ平要害)や出館の程島館と緊密に連携していた。慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津移封に伴い廃城となった。現在は市街地・宅地化が進むが、日吉神社境内周辺に土塁跡や堀跡の水路、段差切岸が良好に残存し、神社の由緒とともに城館の記憶を伝えている。
歴史的役割
蒲原平野南部から新津丘陵山麓に至る交通・水運の結節点を統治した有力国衆・新津氏の世襲本拠地である。新津氏は上杉謙信の旗本親衛隊として活躍し、川中島の戦いや関東出兵で勇名を馳せた。天正6年(1578年)の御館の乱では、新津勝資は上杉景勝方を断固支持。乱後に勃発した新発田重家の乱に際しては、阿賀野川以南の防衛ライン死守を命じられ、反乱軍の南進を食い止める最前線の兵站・迎撃拠点として機能した。能代川とクリーク地帯に囲まれた立地は天然の防壁となり、水陸交通の監視所としても重責を果たした。慶長3年、豊臣秀吉の命による上杉景勝の会津120万石への国替に従い、新津勝資ら一族・家臣団も会津へ移住したため廃城となった。中世越後において平野部の居館と山稜部の詰城(東島城)を併用した典型的な国衆防衛体制を検証する上で欠かせない遺跡である。
見どころ
新津城本丸跡に鎮座し新津氏の守護神を祀る「日吉神社」境内、社殿裏手から境内外縁にかけて良好に現存する中世城郭の「土塁」および敷地境界を示す「切岸」地形、能代川の自然水流を取り込み城郭を二重三重に防備した「水堀(堀跡水路)」の名残、新津氏の菩提寺として山門を構え歴代の供養塔を伝える近隣の「善導寺」、東方約2kmの新津丘陵頂部に展開する有事の詰城「東島城跡(城ヶ平)」を望む景観、日吉神社境内に建立された新津城址之碑・詳細な歴史解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
ここを本拠として15代およそ370年間栄えた新津氏はこの地方唯一の武将で、新津の歴史は実質的には新津氏によって始まりました。
金津に城を築いた金津資義の子である越前守信資が新津氏の始祖です。
新津城は、山谷城とも呼ばれ、築城は鎌倉時代初期の天福元年(1233年)頃ですが、慶長3年(1598年)、15代丹波守勝資のとき上杉景勝に従って会津へ去ったため自然と廃城になりました。
※現地標柱より
城犬のおいど 攻城記録
新居津城跡 標柱


新津自動車学校


