概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:与板陣屋大手門、先:本与板長徳寺山門) |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
与板城(よいたじょう)は、新潟県長岡市与板町与板に所在する信濃川左岸に連なる丘陵頂部(標高約95m、比高約80m)に築かれた中世山城跡である。長岡市指定史跡。室町末期に上杉家重臣・直江親綱が本与板城から居城を移した(または新城として拡張改修した)ことに始まると伝わる。山頂の本丸(実城)を中心に二の丸、三の丸、千石丸、鍛冶が峰などの郭を尾根上に連郭・梯郭状に配した広大な縄張を持つ。背後や尾根筋を断ち切る深大な大堀切、斜面に穿たれた竪堀群、主郭縁辺を巡る土塁、威圧的な切岸、実城下の湧水井戸跡が極めて明瞭に残る。名宰相・直江兼続が青年期から豊臣政権下にかけて本拠とした城として名高く、信濃川舟運と北国街道の結節点を抑える越後屈指の要塞構造を今に伝えている。山麓には江戸時代に井伊氏が構えた与板陣屋の遺構も点在する。
歴史的役割
上杉謙信・景勝の二代にわたる越後支配を支えた名門・直江氏累代の軍事・政治拠点であり、戦国後期の越後情勢を左右する重要拠点として機能した。天正6年(1578年)の「御館の乱」では、直江信綱が上杉景勝方に属して活躍。信綱没後、景勝の信任厚い樋口与六(直江兼続)が未亡人のお船の方と婚姻して直江家を継承し、当城の主となった。兼続は当城を拠点に越後平定や信濃川流域の治水・領国経営を推し進め、中央政権(豊臣秀吉)との外交を一手に担った。慶長3年(1598年)、上杉氏の会津120万石への国替えに伴い兼続も米沢へ移ったため廃城となった。江戸中期には井伊直憲が与板藩主となり山麓に陣屋を築いたが、当城の山稜要塞としての縄張は改変を免れ、戦国上杉家臣団の拠点形態を如実に物語る貴重な遺構群を現代に残している。
見どころ
信濃川を見下ろす山頂に削平された広大な「実城(本丸跡)」および「二の丸・千石丸」などの重厚な連郭式曲輪群、尾根筋からの敵の進攻を鋭利に遮断する深大な「大堀切」および山腹斜面に掘削された「竪堀群」・「空堀」、主郭縁辺部に明瞭に残存する「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、長期籠城を支えた山腹の「実城井戸跡」、山頂展望広場から見晴らす越後平野・信濃川の大河美・弥彦山および越後連峰のパノラマ絶景、長岡市指定史跡標柱・直江兼続公とお船の方の愛の里モニュメント・詳細な解説案内板、近隣長徳寺に移築現存する「旧与板陣屋大手門(切妻造薬医門)」
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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