コンテンツへスキップ
100名城・続100名城 -
別称 魚津要害、小菅沼城、魚津城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 4.1m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平城
曲輪配置梯郭式
築城者椎名氏(椎名孫太郎)
築城年室町時代前期(建武・延文年間・1350年代頃)
廃城年慶長19年(1614年)大坂冬の陣前後に前田氏支配下で廃城
主な城主椎名氏、上杉氏、柴田氏、佐々氏、前田氏
指定文化財市町村区指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 なし

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:4.1m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

魚津城(うおづじょう)は、富山県魚津市本町一丁目に所在する富山湾沿岸の鴨川河口北岸の平地に築かれた中世・織豊期の平城跡である。魚津市指定史跡。南北朝期に新川郡の守護代・椎名孫太郎によって築かれたと伝わる。背後の松倉城を詰城・山岳要塞とするのに対し、平時の居館および日本海沿岸航路・河川舟運を直下に掌握する水陸の兵站要衝として機能した。城域は本丸を中心に二の丸、三の丸を梯郭状に配し、鴨川の水を引き込んだ水堀と土塁を幾重にも巡らせた堅固な輪中平城であった。現在は市街地化が進み市立大町小学校の敷地となっているが、校庭敷地の一角に「魚津城跡碑」や石碑群、解説案内板が整備されている。天正10年(1582年)の「本能寺の変」直前に織田軍と上杉軍が激突した「魚津城の戦い」の壮絶な落城劇の舞台として全国的に著名である。

⚔️ 歴史的役割

越中新川郡の交通・海運の咽喉を扼する軍事拠点であり、織田信長と上杉景勝による北陸覇権争奪の最終決戦地として日本史上極めて重大な役割を果たした。元亀年間に上杉謙信が越中を平定すると直轄拠点となり、河田長親らが城代として配備された。天正10年(1582年)、信長の命を受けた柴田勝家・佐々成政・前田利家ら織田北陸軍4万が当城を完全包囲。上杉方の守将・中条景泰ら十三将率いる約4千の将兵は上杉景勝の本隊救援を待ちつつ約3ヶ月に及ぶ熾烈な籠城戦を展開した。しかし景勝が信濃方面の防衛のため撤退を余儀なくされると、同年6月3日、十三将らは自刃し落城。その前日(6月2日)に京都で信長が討たれた(本能寺の変)ことを知らぬまま散った悲劇の合戦として名高い。戦後は佐々成政領を経て前田利長の領掌となり、江戸初期に廃城となった。

👀 見どころ

魚津城跡の象徴として大町小学校敷地内に建立された「魚津城跡碑」および「魚津城の戦い解説案内板」、籠城戦の末に自刃した上杉方十三将を悼む「十三将之碑」、城域を区画していた鴨川の流路や平城の立地を体感できる周辺の低湿地地形、城下町魚津の古い町割りを色濃く残す本町一帯の街並み、魚津城本丸跡から臨む富山湾(蜃気楼の海)の景観、魚津埋没林博物館・ありそドーム等近隣に点在する魚津城の戦いゆかりの史跡群

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(1城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

あいの風とやま鉄道線および富山地方鉄道本線魚津駅西口から南西へ徒歩約15〜20分、または富山地方鉄道電鉄魚津駅から北西へ徒歩約10分、魚津市大町小学校敷地一帯(魚津市本町一丁目・鴨川河口北岸平野部、主郭標高約7m、富山湾海面比高約5m)

車でのアクセス

北陸自動車道 魚津ICから県道52号島尻魚津線経由で西へ車で約10分、または滑川ICから約15分

駐車場

有(魚津市役所駐車場・大町公民館駐車場、普通車無料約30台)

📍 周辺地図

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

トップへ戻る