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100名城・続100名城 -
別称 さわた城、竹田城、妙宣寺城、雑太要害、雑太城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 49.3m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式
築城者本間氏(雑太本間氏)
築城年16世紀前半頃(室町時代後期・戦国時代)
廃城年天正17年(1589年)上杉景勝の佐渡平定に伴い廃城(城地は妙宣寺へ寄進)
主な城主本間氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:49.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

雑太城(さわたじょう)は、新潟県佐渡市阿佛坊に所在する佐渡平野南西縁の段丘丘陵(標高約50メートル、比高約15メートル)上に築かれた戦国期の平山城跡である。佐渡守護代を務めた佐渡本間氏の惣領家「雑太本間氏」が16世紀前半頃に平時の居館・防衛拠点として築いた。城域は主郭(本丸)、二の郭、三の郭が東西に連なる連郭式縄張を持ち、各郭は土塁と空堀によって堅固に区画されていた。天正17年(1589年)の上杉景勝による佐渡平定によって落城・廃城となり、直江兼続によって城地が日蓮宗の古刹・妙宣寺に寄進された。現在は妙宣寺境内となっており、境内には新潟県唯一の国指定重要文化財である五重塔(文政11年建立)が聳える一方、本堂裏手や境内東側に明瞭な高土塁、山門前に空堀(堀跡)、切岸、井戸跡が良好に残存し、中世城郭の縄張構造を色濃く留めている。

⚔️ 歴史的役割

中世佐渡国の政治・軍事中枢であり、雑太郡地頭職・佐渡守護代として島内各地に分派した本間一族(羽茂本間氏、河原田本間氏等)を束ねる惣領家の本拠として決定的な役割を果たした。本間氏は鎌倉期に佐渡守護・北条大仏氏の守護代として入部し、室町・戦国期を通じて島内の支配権を巡り同族間で激しい抗争を展開。戦国末期には羽茂・河原田両氏の台頭により衰退傾向にあったが、惣領家としての威信を保ち続けた。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命を受けた越後の上杉景勝が佐渡征伐(佐渡平定戦)の軍勢を率いて侵攻すると、城主・本間憲泰らは頑強に迎撃したものの圧倒的な兵力の前に落城。本間惣領家は滅亡し、城郭としての役割を終えた。その後、上杉氏重臣の直江兼続が城跡を妙宣寺の境内地として安堵したことで、遺構の多くが削平を免れて現代に伝えられる契機となった。中世佐渡の武士団支配と領国再編の歴史を証言する貴重な遺跡である。

👀 見どころ

日蓮宗の名刹「妙宣寺」境内として旧態を留める広大な「主郭跡(本堂周辺)」および「二の郭・三の郭」の削平平坦地、妙宣寺本堂裏手に高さ2〜3m規模で明瞭に現存する防衛用の「高土塁」、山門手前および境内東側に明瞭に残る「空堀(堀跡・石橋)」遺構、段丘崖を活かして敵の侵入を防いだ威圧的な「切岸」および境内に残る「古井戸跡」、城跡敷地内に聳え立ち城郭土塁と荘厳な仏教建築が見事に融合する新潟県内唯一の「妙宣寺五重塔(国指定重要文化財)」、妙宣寺山門前に設置された雑太城跡解説案内板および佐渡本間氏ゆかりの歴史遺蹟

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

両津港佐渡汽船ターミナルから新潟交通佐渡バス(南線等)で約35分「竹田橋」下車徒歩約5分、または小木港から車・路線バスで約40分(佐渡市阿佛坊・妙宣寺境内一帯、国府・国分寺近郊、主郭標高約50m、平地比高約15m)

車でのアクセス

両津港から県道65号両津真野赤泊線経由で南西へ車で約30分、または小木港から国道350号経由で北へ約35分

駐車場

有(妙宣寺参拝者専用駐車場、普通車無料約30台)

📍 周辺地図

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