概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
雑太城(さわたじょう)は、新潟県佐渡市阿佛坊に所在する佐渡平野南西縁の段丘丘陵(標高約50メートル、比高約15メートル)上に築かれた戦国期の平山城跡である。佐渡守護代を務めた佐渡本間氏の惣領家「雑太本間氏」が16世紀前半頃に平時の居館・防衛拠点として築いた。城域は主郭(本丸)、二の郭、三の郭が東西に連なる連郭式縄張を持ち、各郭は土塁と空堀によって堅固に区画されていた。天正17年(1589年)の上杉景勝による佐渡平定によって落城・廃城となり、直江兼続によって城地が日蓮宗の古刹・妙宣寺に寄進された。現在は妙宣寺境内となっており、境内には新潟県唯一の国指定重要文化財である五重塔(文政11年建立)が聳える一方、本堂裏手や境内東側に明瞭な高土塁、山門前に空堀(堀跡)、切岸、井戸跡が良好に残存し、中世城郭の縄張構造を色濃く留めている。
歴史的役割
中世佐渡国の政治・軍事中枢であり、雑太郡地頭職・佐渡守護代として島内各地に分派した本間一族(羽茂本間氏、河原田本間氏等)を束ねる惣領家の本拠として決定的な役割を果たした。本間氏は鎌倉期に佐渡守護・北条大仏氏の守護代として入部し、室町・戦国期を通じて島内の支配権を巡り同族間で激しい抗争を展開。戦国末期には羽茂・河原田両氏の台頭により衰退傾向にあったが、惣領家としての威信を保ち続けた。天正17年(1589年)、豊臣秀吉の命を受けた越後の上杉景勝が佐渡征伐(佐渡平定戦)の軍勢を率いて侵攻すると、城主・本間憲泰らは頑強に迎撃したものの圧倒的な兵力の前に落城。本間惣領家は滅亡し、城郭としての役割を終えた。その後、上杉氏重臣の直江兼続が城跡を妙宣寺の境内地として安堵したことで、遺構の多くが削平を免れて現代に伝えられる契機となった。中世佐渡の武士団支配と領国再編の歴史を証言する貴重な遺跡である。
見どころ
日蓮宗の名刹「妙宣寺」境内として旧態を留める広大な「主郭跡(本堂周辺)」および「二の郭・三の郭」の削平平坦地、妙宣寺本堂裏手に高さ2〜3m規模で明瞭に現存する防衛用の「高土塁」、山門手前および境内東側に明瞭に残る「空堀(堀跡・石橋)」遺構、段丘崖を活かして敵の侵入を防いだ威圧的な「切岸」および境内に残る「古井戸跡」、城跡敷地内に聳え立ち城郭土塁と荘厳な仏教建築が見事に融合する新潟県内唯一の「妙宣寺五重塔(国指定重要文化財)」、妙宣寺山門前に設置された雑太城跡解説案内板および佐渡本間氏ゆかりの歴史遺蹟
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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