概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
下条城(げじょうじょう)は、新潟県阿賀野市山口町字館ノ越に所在する安野川左岸の越後平野・自然堤防微高地(標高約8メートル)に築かれた中世武家居館(平城)および近世旗本陣屋(山口陣屋)跡である。通称「下條城」「山口陣屋」「館ノ越」。鎌倉時代の文永2年(1256年)、伊豆国大見郷から越後白河庄の地頭として下向した御家人・大見家久の子孫が下条の地に館を構え、下条氏(大見安田氏・水原氏の同族)を称したことに始まる。丸の内と呼ばれる方形の主郭を中心に堀を隔てて外郭を配した中世環濠居館の構造を持ち、安野川の自然水流を堀として活用した。戦国末期の上杉氏会津移封で一時廃絶したが、寛永11年(1634年)に沢海藩溝口善勝の三男・溝口直勝が旗本千石として山口陣屋を構えた。現在は宅地や耕地となっているが、字名「館ノ越」や微高地段差、堀跡の水路、土塁痕跡が残存する。
歴史的役割
越後北部(阿賀北)の豪族集団「揚北衆」大見安田党の有力一族として、鎌倉・室町・戦国期を通じて白河庄中央部を領有した要石である。戦国期には上杉謙信の有力武将として活躍し、謙信の側近・河田元親の次男である下条忠親が養子に入り家中での地位を固めた。天正9年(1581年)からの「新発田重家の乱」では、下条忠親は上杉景勝方に属して孤立奮闘し、反乱軍の新発田勢と度重なる激しい攻防戦を展開して防衛の前哨線を死守した。慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津移封に際して忠親は二本松城代に任ぜられて越後を離れ、米沢移封後は鮎貝城代を務めた。江戸初期の寛永11年には新発田藩支藩・沢海藩から分知を受けた旗本・溝口直勝が陣屋を設置し、元禄11年(1698年)に無嗣改易となるまで領民統治の政庁として機能した。中世国衆の環濠館から近世旗本陣屋への変遷を伝える阿賀北の貴重な城館史跡である。
見どころ
中世居館および近世陣屋の所在を今に留める小字「館ノ越」の歴史景観、安野川の流路や自然堤防地形を取り込んだ館の敷地境界を示す「切岸(段差)」地形および「水堀(堀跡水路)」痕跡、集落内の一部に残存する館の防壁「土塁」の名残、下条氏・大見氏一族の信仰を集めた近隣の神社仏閣、西約2kmに位置する同族水原氏の拠点「水原城跡」および近世「水原代官所(復元施設)」との連携歴史空間、集落内に設置された下条城址(山口陣屋)解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
伊豆国(現在の静岡県)から源頼朝の命により地頭として派遣された大見一族の大見家久が文永2年(1256)、この下條に館を構え下條氏を名乗ることとなりました。
館は、安野川の自然堤防上にあって丸の内と呼ばれる内部と堀を隔てた両側に外郭からなっていたと考えられます。
織田氏と上杉氏の争いである、天正10年(1582)の新発田の乱では、上杉景勝方の前線拠点として、新発田重家と度重なる攻防を繰り返し、笹岡氏・安田氏・水原氏の各館と共に阿賀北防衛の重要な役割を果たしました。
下條氏は、その後代々「采女」(官職名)を名乗り、歴史上有名な川中島合戦にも参陣して武功を上たと伝えられています。
上杉氏の会津国替えに伴い、四千七百石で二本松城主、その後米沢移封により長井に移り鮎貝城の城代(城の管理役職)を勤め、以後、侍組・福島奉行など米沢藩の要職につきました。
舘之越の地名は、この下條氏の館に関係する名称に由来するものです。
その他にも、江戸時代に新発田藩が陣屋を置いたことで、早道場・代官小路・蔵小路などの地名も残っています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
下條采女の碑
この下條采女の碑は、碑文から文化10年(1814)に館跡に建立され、その後諏訪神社に移転され、長い年月を経て境内の片隅に埋もれかかっていたものを町内会に諮り、現在地に顕彰したものです。
※現地看板より





