概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | あり(北方文化博物館正門・長屋門等再現) |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(北方文化博物館土塀・板塀) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:沢海陣屋門伝承、先:光円寺山門等) |
| 遺構 | 水堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
沢海城(そうみじょう)は、新潟県新潟市江南区沢海に所在する阿賀野川と小阿賀野川の分流点に面した輪中低平地(標高約4メートル)に築かれた中世居館および越後沢海藩1万4千石の陣屋(平水城)跡である。通称「沢海陣屋」。南北朝期から戦国期にかけて在地の小国氏一族・沢海氏が館を構えていたが、慶長3年の上杉氏会津移封に伴い退去。慶長15年(1610年)、新発田藩初代藩主・溝口秀勝の次男である溝口善勝が1万4千石を分知されて沢海藩を立藩し、旧館跡を拡張して沢海陣屋(城)を構えた。阿賀野川の旧河道や用水路を外堀・水堀として引き込み、本丸・二の丸・家臣屋敷街を配した水城構造を持つ。貞享4年(1687年)に4代・政勝が継嗣なく改易され廃藩となった。現在は豪農・伊藤文吉家の旧邸である「北方文化博物館」の敷地や周囲の集落となっており、堀跡の水路や土塁、地名、寺院の移築門に名残をとどめている。
歴史的役割
阿賀野川と信濃川を繋ぐ小阿賀野川の水運結節点を掌握し、越後平野(蒲原平野)中央部の治水・新田開発と軍事交通を統治した近世初頭の小大名拠点である。沢海藩溝口家は本藩の新発田藩と密接に連携しながら、氾濫を繰り返す阿賀野川下流域の堤防普請や河川水運の関所機能を担った。大坂の陣では徳川方として出陣し武功を挙げている。しかし貞享4年に4代藩主・政勝が若くして嗣子を欠いたまま没したため領地は幕府に収公(改易)され、陣屋建造物は破却、領地は幕府領(天領)や新発田藩預かり地となった。その後、この肥沃な新田地帯を基盤として江戸中期以降に台頭したのが越後屈指の大地主「伊藤文吉家」であり、陣屋故地を含む一帯に壮大な豪農屋敷が築かれた。中世水城から近世大名陣屋、そして近世・近代の豪農館へと土地利用が変遷した越後水運・開発史の記念碑的史跡である。
見どころ
陣屋の中核部を包摂し越後屈指の豪農の繁栄を今に伝える国登録有形文化財「北方文化博物館(旧伊藤文吉邸の壮大な主屋・大広間・回遊式庭園・米蔵群)」、陣屋の外堀・水堀跡の名残をとどめる集落内の水路網および微高地に残る「土塁」・「切岸」地形、沢海陣屋の城門を移築したと伝承される近隣寺院の「光円寺山門」、陣屋ゆかりの「大栄寺(沢海藩主溝口家墓所・山門)」、阿賀野川と小阿賀野川が分岐する天然の水運要衝景観、敷地内に残る陣屋古井戸伝承、北方文化博物館前および集落内に設置された沢海陣屋跡石碑・解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
沢海藩は、新発田藩初代藩主溝口秀勝の次男善勝により、慶長15年(1610)に秀勝からの遺領・上野国(現群馬県)知行分・新田分を合わせて14000石で成立した藩である。
以後、二代土佐守政勝、三代伊予守政良と継がれたが、政良の世嗣政武は早世した。
そこで、現滋賀県の水口藩加藤家より政親を養子に迎えたが、藩政は乱れて貞享4年(1687)に改易となり、沢海城も廃された。
藩主の墓石の有無から、1670年代に描かれたと推測される城下町絵図によると、沢海城の本丸に天守の姿はない。
おそらく陣屋風の館で、規模も大きくなかったと推察される。
その位置は、昔から”御殿”と呼ばれているこの付近と想定され、城跡は幕末の絵図にも記載されている。
城の築城時期は、横越島絵図に示された政勝の領分や「沢海御在城実録古老語伝記」から、少なくとも寛永16年(1639)以降と推定される。
沢海藩の家臣団は、もともと新発田に居住していたが、二代土佐守政勝の時代の沢海城完成とともに沢海へ移住してきた。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
床固め公園

案内看板




