概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 層塔型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:長島城大手門、先:市内蓮生寺山門) |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
長島城(ながしまじょう)は、三重県桑名市長島町西外面に所在する木曽川と長良川・揖斐川に挟まれた輪中地帯(標高約2メートル)に築かれた伊勢長島藩2万石の本拠たる近世平水城跡である。「七里城」とも称され、移築門が桑名市指定文化財。寛元3年に鎌倉幕府前将軍の父・藤原道家が館を築いたことに始まると伝わり、室町期に伊藤重晴が城郭化、戦国期には本願寺蓮芸が開いた願證寺を中心とする長島一向一揆の総本山となった。輪中内のクリーク(長島川)を天然の水堀として取り込んだ水城で、織田信長による平定後は滝川一益、織田信雄が入城。慶長期に菅沼定仍が入封して近世城郭へ大改修され、本丸・二之丸が整備された。現在は長島中部小学校・中学校敷地となり、校庭内に本丸西南隅にあった推定樹齢300年以上の県指定天然記念物「大松」がそびえ、東側の長島川沿いに石垣や大手橋下の石垣、水堀跡が残る。
歴史的役割
伊勢・尾張国境を扼する木曽三川河口デルタの水運・軍事拠点として激動の戦国抗争の舞台となった。元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)にかけて、顕如の号令を受けた一向宗門徒が城主・伊藤重孝を追放して蜂起(長島一向一揆)。複雑に入り組む川と泥湿地を活かした鉄壁の要害を誇り、織田信長の3度にわたる総攻撃に対し信長の弟・信興や信広らを討ち取るなど頑強に抵抗した。天正2年、信長は大船団による水陸完全包囲と兵糧攻めを敢行し、降伏を申し出た門徒2万人を焼き尽くす凄惨な殲滅戦で一揆を鎮圧した。戦後は滝川一益、織田信雄が領したが天正地震(1586年)で被災。江戸期には菅沼氏、久松松平氏を経て延享4年(1747年)に増山正贇が2万石で入封し、増山氏8代の城下町として明治維新を迎えた。
見どころ
長島中部小学校校庭奥に威風堂々とそびえ長島城本丸の面影を唯一伝える県指定天然記念物「長島城址の大松(クロマツ巨樹)」、近隣の真宗大谷派蓮生寺に移築現存し桑名市指定文化財に登録されている堂々たる「長島城移築大手門」、小学校東側を流れる長島川(水堀跡)の大手橋下に露出・遺存する貴重な「野面積み石垣群」、長島川沿いに整備された散策路から水城特有の輪中堀景観を体感できる「長島川親水遊歩道」、一向一揆の拠点寺院として信長に焼き払われ後に再興された近隣の「願證寺(長島一向一揆殉教之碑)」、小学校東門脇に設置された長島城跡石碑・解説案内板、城下の旧家遺構を公開する「長島水辺のやすらぎパーク(旧久我邸)」
ご当地グルメ
概要・現地案内板
長島城は、文明年間(1469~87)に伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられる伊藤重晴が長島を治め築城したと言われています。
その後、長島北部の杉江にあった願証寺が浄土真宗の一大拠点となると、伊藤氏は滅ぼされ、長島城も願証寺の支配下に入りました。
そのため、長島一向一揆の時には織田信長の攻撃を受け、天正2年(1574)に包囲され敗れます。
江戸時代に入ると、菅沼氏・松平氏が藩主となりましたが、増山正弥が元禄15年(1702)に長島2万石の藩主になると明治維新まで増山家が続きました。
城の建物は残っていませんが、大手門の一部が蓮生寺(長島町又木)の山門として使われているほか、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上のクロマツが今でも城跡の名残として、その威容を誇っています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

案内板

長島中部小学校

長島の大松
クロマツの大樹で、樹齢は三百数十年と推定されています。伊勢湾台風などの災害にも耐え、現在では長島中部小学校のシンボルとなっていますが、江戸時代には長島城の本丸南西隅に位置していました。
※現地看板より

さざれ石

長良川
桑名城から長島城方面を見た光景。


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