概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | あり(模擬天守・長浜城歴史博物館) |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | あり(天守周辺塀復元) |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:大手門伝承、先:市内大通寺台所門/元:搦手門伝承、先:市内知善院表門) |
| 遺構 | 水堀あり・石垣あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町に所在する琵琶湖北東岸の湖畔(標高約88メートル)に築かれた近世平水城跡である。長浜市指定史跡。元は「今浜」と呼ばれた地で、浅井氏滅亡後に織田信長から北近江を拝領した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が信長の名から一字を取り「長浜」と改称して天正元年から築城した。秀吉が最初に一国一城の主となった出世城として名高い。琵琶湖の水運を直結させた舟入(水門)を備え、本丸・二ノ丸・三ノ丸を配した湖城縄張を持つ。石垣には小谷城の破却石材や竹生島の石材が転用された。元和元年に廃城となり建築部材や石垣は彦根城普請に転用されたが、湖底や公園内に野面積み石垣・天守台遺構・井戸跡が残る。昭和58年(1983年)に犬山城や伏見城を模した三層五階の模擬天守(長浜城歴史博物館)が鉄筋コンクリート造で建設され、豊公園として市民に親しまれている。
歴史的役割
羽柴秀吉の天下統一への第一歩となった出世城であり、北国街道と琵琶湖水運を扼する交通・軍事・商業の最重要拠点として機能した。秀吉は小谷城下から町人を呼び寄せ、楽市楽座や町屋の年貢免除を行い城下町を急速に発展させた。天正10年(1582年)の本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家の養子・柴田勝豊が入城したが、秀吉は勝豊を降伏させ賤ヶ岳の戦いの前線策源地とした。秀吉の全国統一後は山内一豊が城主となり、天正13年(1585年)の天正地震で天守が全壊し愛娘を失う悲劇を乗り越えて城郭を再建。慶長11年(1606年)には内藤信成が入封して長浜藩を立藩したが、元和元年(1615年)に内藤氏が摂津高槻へ転封となると一国一城令により廃城となった。秀吉が天下人へと駆け上がった原点であり、湖上交通を掌握した初期織豊系城郭の代表例である。
見どころ
昭和58年に犬山城などをモデルに望楼型三層五階で復元され最上階から琵琶湖・竹生島・伊吹山を一望する「模擬天守(長浜城歴史博物館)」、湖岸の渇水期に湖底から姿を現す秀吉期の貴重な「太閤井戸跡(湖底井戸跡)」、本丸跡周辺に露出・残存する「野面積み石垣」および「天守台跡」、市内の真宗大谷派長浜別院大通寺に移築現存する国指定重要文化財「大通寺台所門(旧長浜城大手門移築伝承門)」および知善院に移築された「知善院表門(搦手門伝承門)」、秀吉が琵琶湖の水運を直接城内に引き込んだ「舟入水門跡」の地形、日本さくら名所100選に選ばれ天守を包み込む豊公園の桜景観、長浜駅前広場に建立された「羽柴秀吉と石田三成の出逢いの像(三献の茶像)」、長浜市指定史跡碑・解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。
以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。
姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。
秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。
江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。
建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。
また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。
この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。
城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。
しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

長浜城石垣出土地
従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることとなった。同年11月下旬から約1か月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。
※現地標石より

本丸跡



旧長浜領境界碑
長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米3百石を納めることを免ぜられた。この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに30数本建てられたといわれる。しかし今は、わずかに10余本を数えるだけでそのうちもとの位置にあるものは数本である。

長浜城石垣礎石

長浜城歴史博物館
長浜は羽柴秀吉が江北12万石の領主として、はじめて自らの城を築き城下町を形成した地であります。当市では秀吉ゆかりの城跡を永く記念するとともに広く皆様に学習の場、憩いの場として親しんでいただくために城郭様式の博物館を建設しました。

建物は、城郭研究の権威藤岡通夫工学博士の設計によるもので二層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式にしてあります。
※現地市立長浜城歴史博物館の看板より




天守跡
この石碑が建つ位置は、長浜城の天守があったといわれる所です。その天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。その後、山内一豊公など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。

このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(専門的には「縄張」といいます)は現状から推定することはできません。古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2㌔・東西約0.7㌔の大きさであったと考えられます。さらに、今回の「秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業」では、左図に示したような石碑・石柱を豊公園周辺の城跡に建立し、城があった頃の状況が分かるようにしました。
※現地長浜城の構造より

豊臣秀吉公像



太閤井跡

2022/10最終訪問


ピンバック: 縁のある城 其壱 豊臣秀長 | 城犬のおいど