概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
伊東館(いとうやしき)は、静岡県伊東市大原二丁目に所在する伊東市街地中央部を流れる伊東大川(松川)右岸の段丘微高地(標高約25メートル)上に位置した平安末期から鎌倉初期の武家屋敷(平城・居館)跡である。通称「物見塚公園」「伊東氏館跡」。伊東市指定史跡。藤原南家工藤氏の流れを汲む伊豆の有力豪族・工藤祐経(伊東祐経)の居館と伝わる。単郭の方形館構造を持ち、館の周囲には土塁や空堀が巡らされていたと推定される。敷地東側には敵の動静を監視した物見櫓跡とされる「物見塚」と呼ばれる高まりがあり、現在も明瞭な塚状土塁遺構として公園内に保存されている。敷地内には工藤祐経を祀る神社が鎮座し、鎌倉武士の草創期における伊豆武士団の生活・軍事拠点形態を今に伝える貴重な遺構である。
歴史的役割
日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」の根源となった伊東庄の領有権争いおよび源頼朝の挙兵前夜の舞台として日本中世史に大きな足跡を残す。工藤祐継の死後、伊東庄の遺領を巡って伊東祐親(河津祐泰の父)と工藤祐経が激しく対立。所領を奪われた祐経は深く恨み、安元2年(1176年)に刺客を放って奥野の狩場で祐親を狙わせたが、誤って祐親の嫡男・河津祐泰を射殺した。この事件が発端となり、父の仇を討つべく成長した祐泰の子・曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟により、建久4年(1193年)の富士の巻狩りの夜に祐経が討ち取られる「曽我兄弟の仇討ち」へと発展した。伊豆武士団の血みどろの内紛劇の主役の居館であり、平安末期の東国武士団の所領紛争と武家社会誕生の背景を物語る象徴的史跡である。
見どころ
物見塚公園内に良好に現存し中世居館の物見櫓跡・土塁遺構と伝わる「物見塚(塚状土塁)」、工藤祐経を祀り武士団の面影を今に伝える塚上の祠「工藤祐経公社」、居館の区画や敷地外縁部を示す段丘面の「切岸」地形、公園入口に建立された堂々たる「工藤祐経館跡石碑(伊東館跡碑)」および解説案内板、伊東大川(松川)を挟んで対岸の音無町に位置するライバル・伊東祐親の拠点「伊東祐親館跡(音無神社・祐親銅像)」、伊東氏の菩提寺で祐親一族の墓塔が並ぶ「東林寺」、伊東温泉の歴史景観
ご当地グルメ
概要・現地案内板
伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住み着いた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。
曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。
伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。
この高台の一角にある物見等に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されて来ました。
現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇ってきた物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。
この高台のふもとにある仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。
※現地石碑より
城犬のおいど 攻城記録
伊東市役所


物見塚公園



伊東祐親公像
嘉永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠筋に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。

まぼろしの雄叫びきこゆ
減ぶると知りつつ武将の
ちから竭しき
ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町、伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がいかず多くつたえられている。
※伊東祐親公像より



2024/8最終訪問
