概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
曳馬城(ひくまじょう)は、静岡県浜松市中央区元城町に所在する三方原台地東端の舌状段丘(標高約24メートル、比高約10〜15メートル)上に築かれた中世平山城跡である。通称「引馬城」「古城」。永正年間に今川氏親の命を受けた遠江今川方の重臣・飯尾賢連が築城したと伝わる。四方を急峻な段丘崖と湿地に囲まれた要害で、主郭を中心に堀切や土塁を配していた。永禄11年(1568年)に徳川家康が遠江へ侵攻して本城を攻略。元亀元年(1570年)に岡崎城から本拠を移した家康は、「引馬」が「馬を引く(敗走)」に通じて不吉であるとして地名を「浜松」と改め、城域を西南側へ大幅に拡張して近世浜松城を築城した。これにより曳馬城は浜松城北東端の要衝「古城」曲輪(出丸)として組み込まれた。現在は主郭跡に元城町東照宮(椿姫観音隣接)が鎮座し、一段高い土塁や切岸、石垣遺構が良好に残存している。
歴史的役割
今川・武田・徳川三勢力が激突した戦国期遠江国の軍事・統治中枢であり、若き徳川家康の天下取りの跳躍台として極めて重要な役割を果たした。飯尾連龍の代には桶狭間の戦い後に今川氏真から離反し、氏真の猛攻を受けて連龍は駿府で謀殺されたが、未亡人のお田鶴の方(椿姫)が城兵を率いて頑強に抵抗し家康軍を相手に討ち死にした(椿姫伝説)。入城した家康はここを起点に遠江統治を確立。元亀3年(1572年)の三方原の戦いでは、武田信玄の軍勢に大敗した家康が命からがら逃げ帰った城郭そのものである。また、かつて豊臣秀吉(木下藤吉郎)が少年期に頭陀寺城主・松下之綱に仕えていた頃に訪れた伝承もあり、家康と秀吉という二人の天下人が足跡を残したことから「出世神社」として名高い。近世城郭・浜松城の母体となった中世城砦である。
見どころ
曳馬城本丸(主郭)跡に鎮座し徳川家康公を祀る「元城町東照宮(出世神社)」、主郭境内周囲を取り巻くように明瞭に現存する中世の「土塁」および段丘崖を削り落とした峻険な「切岸」遺構、浜松城の拡張時に補強された「石垣」跡、境内中央に建立され写真撮影スポットとして親しまれる若き日の「徳川家康公像」および青年期の「豊臣秀吉公像(二人の天下人像)」、壮絶な討ち死にを遂げた飯尾連龍未亡人を祀る近隣の「椿姫観音(お田鶴の方墓所)」、西側に広大に連なる「浜松城天守閣・天守台石垣・本丸富士見櫓跡」、境内に設置された曳馬城跡石碑・解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
鎌倉時代の浜松は、「ひきま(ひくま)」と呼ばれる町でした。
現在の馬込川が天竜川の本流にあたり、西岸に町屋が発達しました。
「船越」や「早馬」はこの頃の地名です。
戦国時代、この町を見下ろす丘の上に引間城が築かれます。
歴代の城主は、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏などがおり、斯波氏と今川氏の抗争の中で、戦略上の拠点となっていきました。
この時代の浜松には、同じ今川方で、少年時代の豊臣秀吉が初めて仕えた松下加兵衛(頭陀寺城城主)がいました。
松下氏に連れられて、秀吉は引間城を訪れています。
徳川家康が最初に居城としたのもこの城です。
元亀3年(1572)、武田信玄との三方ヶ原の戦いに、家康は「浜松から撤退するくらいなら武士をやめる」という強い覚悟で臨みましたが、引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退したと言われています。
このころまで引間城が重要な拠点だったことがわかります。
その後、城主となった豊臣系の堀尾吉晴以降、浜松城の増改築が進むにつれ、引間城は城の主要部から外れ、「古城」と呼ばれて米蔵などに使われていました。
明治19年、旧幕臣・井上延陵が本丸跡に家康を祭神とする元城町東照宮を歓請し、境内となっています。
※現地説明板より
城犬のおいど 攻城記録
元城町東照宮
元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代この城には、後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れています。天文20年(1551年)、尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時16歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。

元亀元年(1570年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時29歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街 浜松」を代表するまさに聖地といえます。
※現地看板より

井上延陵君碑

元城町東照宮由緒
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り明治17年元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが昭和11年その所有権が井上家より亦管理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ、その後元城町の氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和14年に社殿手水舎社務所等を再建し今日に至る
※現地看板より

「二公像」と一緒に写真を撮ろう!
天下人となった家康公と秀吉公の運気は天下無敵。二公像とともに写真を撮ると、出世運がうなぎのぼり。SNS等で拡散すると、運気を広く周囲に振りまくことができます。多くの著名人もこの聖地で出世運を授かっています。ぜひ皆さんも写真を撮って、SNS等で発信してください!
※現地看板より


土塁



浜松城

引間城本丸跡

2025/2最終訪問
