概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
新井宿城(あらいじゅくじょう)は、東京都大田区山王三丁目に所在する東京湾・大森低地を眼下に見下ろす標高約26メートル(比高約15メートル)の武蔵野台地東端部(山王台地)の舌状段丘上に築かれた中世城郭・居館跡である。信濃源氏の雄・木曽義仲(朝日将軍)の遺児である木曽義基(または義房)が落ち延びて居館を構えたことに始まると伝承される。段丘崖下の弁天池(湧水池)や開析谷低湿地を天然の水堀とし、現在の善慶寺および熊野神社境内を中心とする台地上に主郭(本丸)と二の郭を連郭・梯郭状に配置。周囲を土塁と空堀で区画した堅固な平山城の構造を持つ。大正期以降の山王地区の高級住宅街造成により市街化が進んだが、善慶寺背後や熊野神社社叢の段丘縁辺部に土塁状の高まり、急峻に削り落とされた威圧的な切岸地形、谷筋の堀跡、城内の生活用水であった湧水井戸跡が今も明瞭に遺存する。
歴史的役割
鎌倉街道および東海道(品川・大森沿岸ルート)の結節点を直下に扼し、東京湾海運と内陸交通の双方を監視・統制する防衛上の重要拠点として機能した。木曽義仲敗死後、家臣に守られて武蔵国荏原郡新井宿に逃れた木曽氏後裔は在地土豪として定着。戦国期には小田原後北条氏の勢力下に組み込まれ、北条氏康・氏照体制下における江戸湾沿岸防衛ネットワーク(品川御殿山城・馬込城・新井宿城)の一翼を担った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、後北条氏の没落とともに防衛拠点としての役割を終えて廃城となった。城域に建つ善慶寺は木曽氏ゆかりの寺院と伝わり、江戸時代には新井宿義民(名主・間宮新五郎ら)の直訴事件の舞台としても知られる。名族落人の居館から戦国期要塞へと発展した武蔵武士の在地領主史を物語る貴重な遺跡である。
見どころ
新井宿城跡の主郭推定地である「善慶寺境内」および隣接する「熊野神社境内」の平坦面遺構、善慶寺本堂裏山および熊野神社社叢の縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」状土盛り地形、山王台地の急峻な段丘崖を垂直に削り落とした威圧的な「切岸」地形、開析谷沿いに残る「空堀(堀跡)」の凹地痕跡、台地直下の天然湧水池「弁天池」および城内水源の「井戸跡」、善慶寺境内に建立された木曽義仲公・新井宿城ゆかりの伝承解説板および江戸時代の義民を顕彰する「義民六人衆の墓」、段丘上から望む大森駅周辺・東京湾方面のパノラマ眺望
ご当地グルメ
概要・現地案内板
「荒藺ヶ崎」として万葉集にも詠まれたという新井宿城。
戦国時代には、北条氏の家臣である梶原日向守の城であったと伝わる。
神社のある丘が城址で、南西に突き出た舌状台地が城の面影として残る以外は、遺構らしきものも見当たらない。
城の麓には善慶寺があり、境内奥に荒藺ヶ崎熊野神社への参道が続く。
城犬のおいど 攻城記録

荒藺ヶ崎熊野神社















2025/5最終訪問
