概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
馬込城(まごめじょう)は、東京都大田区南馬込五丁目に所在する内川流域を見下ろす標高約28メートル(比高約15メートル)の武蔵野台地南東端の舌状段丘上に築かれた中世城郭・居館跡である。鎌倉幕府草創の重臣・梶原景時が荏原郡馬込郷に構えた居館(馬込館)を起源と伝承される。内川の開析谷と低湿地を天然の防壁とし、台地頂部の八幡神社境内を中心とする主郭(本丸)から万福寺・善照寺にかけて連郭・梯郭状に曲輪を展開。周囲を空堀と土塁で区画した中世武士団の平山城形態を持つ。周辺一帯は近代以降の宅地化が進んだものの、八幡神社境内の社叢や段丘縁辺部に土塁状の微高地、台地を削り落とした威圧的な切岸地形、谷筋に沿った堀跡の窪地、城内の生活・水源であった古井戸跡が今も明瞭に遺存する。馬込文士村の歴史的景観の基底を成す重要遺跡である。
歴史的役割
鎌倉街道中道から品川・大田・相模方面へと分岐する街道筋と内川水系を扼する軍事・交通監視の要衝として機能した。梶原景時は源頼朝の信任厚い側近として権勢を振るい、当城は梶原一族の在京・武蔵経営の拠点の一つであった。正治2年(1200年)の梶原景時の変で一族が没落した後も、馬込に残った梶原氏の後裔が居館を維持・改修したとされる。室町・戦国期には世田谷城主・吉良氏や小田原後北条氏の勢力下に組み込まれ、品川湊や多摩川下流の国境を睨む支城・砦として再編された。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、後北条氏の滅亡および世田谷吉良氏の没落とともに城郭としての役割を終え廃城となった。鎌倉御家人居館から戦国期国衆の防衛砦へと変遷した東国武士団の動向を物語る貴重な城館跡である。
見どころ
馬込城跡の中枢部と推定される「八幡神社境内」および隣接する「万福寺」境内の平坦面遺構、八幡神社裏手および境内縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」状土盛り地形、段丘崖を垂直に削り落とした威圧的な「切岸」地形、谷筋に沿って残る「空堀(堀跡)」の凹地痕跡、万福寺境内等に残る城内水源の「井戸跡」、梶原景時ゆかりの菩提寺・万福寺に伝わる「梶原景時墓碑(供養塔)」および大田区設置の歴史案内板、尾根上から見下ろす内川流域の街並みと起伏に富む馬込文士村の歴史散策景観
ご当地グルメ
概要・現地案内板
戦国時代には北条氏家臣の梶原助五郎が馬込村一帯を領していたが、現在遺構などは確認されておらず、馬込城について不明である。
東端は北の神社、南は臼田坂下、西は湯殿神社、北は大田区立馬込図書館が城域とみられ、小高くなっており、周辺の谷には沼を配して防衛していたと見られる。
西側は根小屋と呼ばれ城主の居住の場となっていたことが想像される。
また、湯殿神社から北東に位置する万福寺には源頼朝の命により建立したという鐘楼門が移築されており、寺内には梶原景時の墓と伝わる塔がある。
城犬のおいど 攻城記録
湯殿公園




湯殿神社











2025/5最終訪問
