概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
浦賀城(うらがじょう)は、神奈川県横須賀市東浦賀二丁目の浦賀港東岸にそびえる標高約55メートル(比高約54メートル)の明神山(東叶神社裏山)頂部に築かれた戦国時代の山水城(海城・出城)跡である。浦賀港の入口を扼し、東京湾(浦賀水道)から対岸の房総半島を一望する極めて戦略的な岬状丘陵に占地する。南北に連なる細長い尾根頂部に本丸(南郭・現在は東叶神社奥宮および勝海舟断食の碑が建立)と北郭が連郭式に造成され、両郭の間には尾根を分断する堀切や空堀、曲輪縁辺を取り巻く土塁、切岸、井戸跡が残存する。山頂周辺は「叶神社の社叢林」として神奈川県指定天然記念物に指定されており、豊かな自然林の中に戦国水軍拠点の土木地形をとどめている。
歴史的役割
戦国時代、相模を平定した小田原北条氏の第3代当主・北条氏康が、東京湾を挟んで激しく敵対した房総里見氏の海上侵攻に備える海防・水軍前哨基地として築造・改修した。本拠である三崎城の水軍と連携し、浦賀水道を航行する船舶の監視、浦賀港の警備、敵船来襲時の早期警戒(狼煙等による急報)を担う軍事要塞として機能した。永禄年間前後の里見水軍との三浦半島沿岸をめぐる激しい海上抗争で重要な役割を果たし、天正5年(1577年)の房相一和による対立緩和を経て、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡したことに伴い廃城となったとされる。江戸末期には万延元年(1860年)の咸臨丸太平洋横断に先立ち、勝海舟が山頂で断食修行を行った歴史でも知られる。
見どころ
南郭(本丸)と北郭の間を遮断する尾根上の堀切・空堀遺構、曲輪縁辺部に残存する土塁痕跡および急峻な切岸斜面、北郭付近に残る井戸跡とされる窪地、本丸跡に建つ「勝海舟断食之處」石碑および城跡解説板、山頂本丸から浦賀水道・房総半島(鋸山方面)・行き交う船舶を360度見渡す海城ならではの大パノラマ眺望、対岸の西叶神社とを結ぶ市道「浦賀の渡し」から望む城山全景、県天然記念物に指定された暖地性照葉樹林が鬱蒼と茂る東叶神社社叢林の歴史自然環境
ご当地グルメ
城犬のおいど 攻城記録 
戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下山田・城山とも呼ばれていました。昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されウバメガシ分布の北限とされています。嘉永6年(1853)ペリーの黒船4隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。
※現地看板より
叶神社


登城口
叶神社の西側の階段を登る

勝海舟断食の碑
万延元年(1860)、日本で初めて太平洋横断を成しとげた成臨丸の艦長格・勝海舟は、航海前に、東叶神社の井戸で水垢離をした後、裏山の山頂で断食をしたと伝えられています。
過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり、船玉明神を祀る叶神社に、航海の安全を切実な思いで祈願したと思われます。
※現地看板より

横にある石碑は、大正時代に豪雨により崩壊した産霊坂を修復した旨を記載している石碑です。
産霊坂

主郭

本殿(奥の院)

東照宮


住友重機殉職者慰霊塔





浦賀燈明堂



身代り弁天御神徳


勝海舟断食修行の折 使用の井戸

駐車場は道路の両側(神社側と海側)にあります。

城犬のおいどWaのおすすめ散策ルート
浦賀駅を降りたら、まっすぐ城址に向かうのではなく県道208号線を南下して、西叶神社を巡り、西渡船場から浦賀の渡しを利用して、東渡船場に行き東林寺を巡って東叶神社に行くのがよきかな?
2024/6最終訪問
周辺10km圏内の城郭(0城)
※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。
