概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
丸山城(まるやまじょう)は、静岡県伊豆市八木沢に所在する西伊豆海岸・駿河湾に突出した標高約40メートル、比高約35メートルの丸山と呼ばれる岬状独立丘陵上に築かれた中世山水城(海城)跡である。通称「八木沢丸山城」。室町後期に西伊豆の有力在地土豪・富木肥前守が築城したと伝わり、戦国期には小田原北条氏の西伊豆沿岸支配および水軍監視の拠点として改修・運用された。山頂の主郭(本丸)を中心に尾根筋沿いに平坦段を配した連郭式縄張を持ち、背後の尾根筋を断ち切る深大な堀切、曲輪周縁の土塁、急峻な海食崖を活用した切岸が明瞭に遺存する。駿河湾に面した天然の船溜まり(八木沢港)を眼下に直結させ、対岸の駿河国(武田水軍・今川方)を常時監視する物見台・水軍城郭としての典型的な立地と緊密な防衛構造を今日に伝えている。
歴史的役割
戦国期の武田氏・今川氏・北条氏が激突した駿河湾の制海権争奪戦において、後北条氏水軍(伊豆水軍)の前線見張り・連絡拠点として重要な軍事機能を担った。対岸の駿河湾を航行する敵船を監視するとともに、北方の土肥金山や土肥城(富木氏本拠)、南方の松崎・下田方面を結ぶ海上交通路および沿岸陸路の結節点を防備した。天正7年(1579年)の甲斐武田氏による伊豆侵攻(三津浜夜戦等の駿河湾海戦)に際しては、後北条氏の海上防衛網の一翼を構成。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、長宗我部元親・九鬼嘉隆ら率いる豊臣水軍大船団が駿河湾・伊豆沿岸を北上・封鎖するなかで、土肥城など西伊豆諸城とともに機能を停止し廃城となった。
見どころ
岬状丘陵の尾根筋を鋭利に掘削して背後陸路からの敵侵入を遮断する「堀切」遺構、主郭(本丸)周囲を取り巻く「土塁」および駿河湾の海食崖を巧みに利用した急峻な「切岸」、眼下の八木沢港や駿河湾・富士山・対岸の駿河(富士・沼津方面)まで見渡す「物見台跡(主郭からの大パノラマ眺望)」、後北条水軍の船隠し場・水軍港の地形をとどめる「八木沢浦景観」、富木氏一族の供養塔が伝わる近隣寺院、登城道入口に設置された城址碑・解説案内板
ご当地グルメ
概要・現地案内板
丸山城の原型は、海岸に独立する丸山だけで完結した小さな海賊城であったと推定されているが、その築城年代は不詳である。
室町時代中期、土肥高谷城主富永氏が西伊豆一帯に勢力を伸張するにおよび、
丸山城も高谷城の支城となり、同氏の水軍基地の一つとなった。
延徳3年(1491年)、富永氏は北条早雲に服属、以降北条水軍の中核的存在となって、駿河湾・相模湾・江戸湾を舞台に活躍した。
天正年間にいたり、小田原の北条氏政は、対岸の敵である武田水軍に備え、
旧丸山城を大幅に拡張してこの付近に本丸を移した。
整備強化された丸山城は総面積約20ヘクタール、伊豆における最大の水軍基地であったが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の水軍の来攻によって落城、廃棄処分に付された。
現在もこの付近には当時の曲輪跡や石垣が残っている。
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

丸山城址と船溜り跡
丸山城の原形は土豪の拠った小さな海賊城だったと推定されるが、その築城年代は不詳である。しかし少なくとも室町中期には土肥高谷城主富永氏の支城となり、同氏水軍の根拠地となっていた。延徳3年(1491)富永氏は北条早雲に服属し、以後北条水軍の中核部隊として活躍した。富永政直は江戸城主にも任ぜられている。

天正年間にいたり、小田原の北条氏政は対岸駿河に進出してきた武田氏の水軍に備え、この丸山城を大拡張強化して西伊豆最大の水軍基地とした。北条氏の軍船はこの城下の船溜りに集落し、駿河湾はもとより遠州灘・相模湾・江戸湾にまで出撃していったのである。天正18年(1590)豊臣秀吉の水軍に攻められて落城、廃棄処分に付されたが、城址一帯には当時の曲輪跡・堀・石垣が残っている。現在野球場になっている辺りは往時の船溜りの跡である。
※現地説明板より

国道136号線

伊豆歩道・丸山コース入口
海側に張り出す丸い山は出城で、本城はこちらから登ったところにあります。

石垣
所々に石垣が残っています。




本曲輪入口

本曲輪



四阿

丸山城本丸跡
丸山城の原形は、海岸に孤立する丸山だけで完結した小さな海賊城であったと推定されているが、その築城年代は不詳である。室町時代中期、土肥高谷城主富永氏が西伊豆一帯に勢力を伸張するにおよび、丸山城も高谷城の支城となり、同氏の水軍基地の一つとなった。延徳3年(1491年)、富永氏は北条早雲に服属、以降北条水軍の中核的存在となって、駿河湾・相模湾・江戸湾を舞台に活躍した。

天正年間にいたり、小田原の北条氏政は、対岸の敵である武田水軍に備え、旧丸山城を大幅に拡張してこの付近に本丸を移した。整備強化された丸山城は総面積約20ヘクタール、伊豆における最大の水軍基地であったが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の水軍の来攻によって落城、廃棄処分に付された。現在もこの付近には当時の曲輪跡や石垣が残っている。
※現地説明板より

おこり石
登ったり踏みつけたり、ゆすったりするなど粗末に扱うとケガや病気などの災いが起こると言われるこの石は、「おこり石」と呼ばれて地元では敬われています。ある時、子供が石に飛びあがったりゆすったりしてしまい、夕方より突然40度の高熱が出てしまいました。心配した父親が、子供がおこり石を粗末に扱ったことを知ると、早速お酒をさげてお参りしたところ、子供の熱は下がり元気になったといいます。粗末に扱うことの無いように、優しく扱いましょう。
※現地説明板より



詰の曲輪




2024/1最終訪問
