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100名城・続100名城 -
別称 赤羽城、道灌山城、静勝寺城、城山、稲付城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 19.7m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者太田道灌
築城年室町時代中期(康正・文明年間・1450〜1470年代頃太田道灌築城)
廃城年天正18年(1590年)小田原征伐に伴い後北条氏滅亡により廃城
主な城主太田氏、後北条氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:19.7m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

稲付城(いなつけじょう)は、東京都北区赤羽西一丁目に所在する荒川低地を眼下に見下ろす標高約23メートル(比高約18メートル)の武蔵野台地北東端舌状段丘上に築かれた中世屈指の平山城跡である。扇谷上杉家の重臣・太田道灌が江戸城と岩槻城・河越城を結ぶ軍事連絡路の中継砦として築城した。東側・北側の荒川沖積低地への急峻な崖線を天然の要害とし、現在の曹洞宗静勝寺境内を主郭(本丸)として南西の台地続きに二の郭・腰曲輪を連郭・梯郭状に配置。主郭と台地基部を峻険に分断する堀切(空堀)跡、主郭背後を取り巻く土塁、段丘崖を垂直近くに削り落とした威圧的な切岸、城内水源の湧水井戸跡が良好に遺存する。道灌没後、その養子・太田資高が道灌の菩提を弔うため城内に庵(静勝寺)を建立。境内には徳川家光・綱吉の時代に寄進された弁天堂(道灌堂)が建ち、太田道灌ゆかりの名城遺構を色濃く残している。

⚔️ 歴史的役割

武蔵国豊島郡と足立郡の境界に位置し、古代・中世の重要幹線(岩槻街道・鎌倉街道奥山道)および荒川(旧入間川)の渡河点・水運を直接監視・統制する防衛・兵站の要衝として機能した。享徳の乱および長尾景春の乱において、道灌は豊島氏の石神井城・練馬城・平塚城に対抗し、江戸城北方防衛の出城として当城をフル活用した。豊島氏滅亡後も扇谷上杉氏の前線拠点として維持され、戦国期には後北条氏の勢力下に組み込まれて岩槻城主・太田資正への備えや江戸城防衛網の一翼を担った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、後北条氏の滅亡とともに城郭としての軍事的役割を終えて廃城となった。城域は静勝寺として受け継がれ、江戸時代には徳川将軍家の日光社参時の休憩所にも充てられた。名将太田道灌の戦略構想を物語る第一級の城郭史跡である。

👀 見どころ

静勝寺境内の深い樹林に包まれた「主郭跡(本丸)」および南側尾根に連なる「曲輪群」の平坦面遺構、主郭南西側を断ち切る深さ約4m規模の「堀切(大空堀)」跡の立体地形、主郭縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」および赤羽駅前低地へ垂直近くに切り立つ険峻な「切岸」、境内下に湧き出る生活・軍事水源の「井戸跡」、東京都指定有形文化財「弁天堂(道灌堂)」および内部に安置される木造太田道灌坐像、北区教育委員会設置の稲付城跡・太田道灌解説板、山頂主郭から見晴らす赤羽市街地・荒川流域・遠く埼玉方面のパノラマ眺望

🍲 ご当地グルメ


概要・現地案内板

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯あたりに太田道灌が築城したといわれている戦国時代の砦跡です。
1987年に静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、1582年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する「静勝寺除地検地絵図(1687年)」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には、鎌倉時代から岩渕の宿が、室町時代には関が設けられて街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、エドジョウと岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
太田道灌の死後、この城には孫の太田資高が隠居し、後に後北条氏に使えました。資高の子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
1655年に太田道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


静勝寺東山門


参道


道灌堂


右手の道灌堂の厨子には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。

像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造りです。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。

現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。像は、道灌が没してから二百年以上もの後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
※現地看板より

南門


稲付城跡は、武蔵野台地北部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。現在静勝寺が所存する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m、約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。

静勝寺には室町時代の武将太田道灌の木造坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
※現地看板より

2019/6最終訪問


🧭 周辺の城郭マップ

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現在の城 訪問済 名城 一般
半径 10km 圏内の城郭(0 城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR各線(京浜東北線・宇都宮線・高崎線・埼京線)赤羽駅西口から南西へ徒歩約5分、または東京メトロ南北線赤羽岩淵駅から徒歩約12分、曹洞宗自得山静勝寺境内および弁天通り周辺一帯(北区赤羽西一丁目、武蔵野台地北東端・稲付舌状段丘崖上、主郭標高約23m、赤羽駅低地比高約18m)

車でのアクセス

首都高速中央環状線 王子北出入口から国道122号(北本通り)経由で北へ車で約10分、または板橋本町出入口から約12分

駐車場

なし

📍 周辺地図

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