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100名城・続100名城 -
別称 矢部氏館、矢部氏居館、上矢部城、矢部館、伝矢部氏館
城址碑 なし
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 111.5m
最終訪問日 2025-04-01

📋 概要スペック

種別居館
縄張平城
曲輪配置単郭式
築城者矢部義兼
築城年平安時代末期
廃城年建暦3年(1213年)
主な城主矢部氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・土塁あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:111.5m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

矢部城(やべじょう)は、神奈川県相模原市中央区上矢部五丁目(旧相模国高座郡矢部郷)の相模野台地平坦面上に所在した平安時代末期から鎌倉時代の武士居館(平城)跡である。「矢部氏館」「矢部氏居館」「上矢部城」とも称される。武蔵七党最大勢力である横山党の一族・矢部氏の本拠地と伝わる。居館は方形状の単郭プランを有していたと推測され、敷地境界には土塁と堀が巡らされていた。現在の上矢部交差点東側の道路沿いには、高さ約3メートル、長さ約30メートルに及ぶ往時の土塁が奇跡的に現存し、相模原市教育委員会による解説板が設置されている。発掘調査では土塁の外側に幅広の箱薬研堀跡が確認され、館の防御構造が実証された。また、北側の鬼門に鎮座する御嶽神社や南側の裏鬼門にあたる薬師堂、近隣に伝わる矢部義兼供養の板碑など、中世武士団の在地空間構造を今に伝えている。

⚔️ 歴史的役割

平安時代末期、横山党の首長・横山孝兼の孫にあたる矢部義兼によって境川流域の支配拠点として築かれたと伝わる。矢部氏は鎌倉幕府の有力御家人として活動したが、建暦3年(1213年)に執権北条義時と和田義盛が激突した和田合戦(和田の乱)において、横山党は和田方に加担して奮戦した末に敗北し、矢部義兼も討死して一族は没落、館も機能を失ったとみられる。上矢部三丁目に残る「上矢部乾元二年の画像板碑」(相模原市指定有形文化財)は、乾元2年(1303年)に遺族や旧臣らが義兼の五十回忌追福のために造立した供養碑と伝えられる。武蔵・相模境目の交通要衝を抑え、武士団の発展と和田合戦による盛衰を如実に物語る中世在地領主館の重要遺構である。

👀 見どころ

上矢部交差点東側の道路沿いに堂々と現存する高さ約3m・長さ約30mの上矢部の土塁遺構、土塁脇に設置された発掘調査写真(箱薬研堀)入りの相模原市教育委員会解説案内板、和田合戦で討死した矢部義兼の追福供養を今に伝える上矢部乾元二年の画像板碑(市指定有形文化財)、矢部義兼が居館の鬼門除けとして建久年間に勧請したと伝わる上矢部御嶽神社、居館の裏鬼門鎮護として配置された薬師堂の歴史的立地環境

🍲 ご当地グルメ

相模原ラーメン、相模原炭火焼き豚丼、相模原名物ホルモン焼き、津久井在来大豆味噌料理、相模原ギョーザ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(3城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR横浜線矢部駅北口から徒歩約15〜20分、またはJR淵野辺駅北口・相模原駅南口から神奈川中央交通バスで「上矢部」または「薬師堂」下車徒歩約2分(上矢部交差点東側・上矢部五丁目および上矢部御嶽神社周辺、標高約112m、比高約0m)

車でのアクセス

圏央道 相模原愛川ICから国道129号および国道16号経由で北東へ車で約15分、または八王子バイパス 相原ICから南東へ約10分

駐車場

なし

📍 周辺地図

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