概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:大聖寺藩陣屋長屋門、先:実性院山門等) |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
大聖寺城(だいしょうじじょう)は、石川県加賀市大聖寺錦町に所在する大聖寺川南岸の標高約64メートル(比高約50メートル)の独立丘陵「錦城山」頂部に築かれた中世山城・織豊系平山城跡である。通称「錦城(きんじょう)」。加賀市指定史跡。南北朝期に狩野景佐が築いたことに始まると伝わり、室町期には加賀守護・富樫氏と加賀一向一揆の激戦の舞台となった。織田信長の北陸平定後は柴田勝家の甥・津田正勝(柴田勝政)が入り、近世城郭への改修が進められた。山頂の本丸を中心に東西および南北の尾根上に二の丸、三の丸、西の丸、鐘撞堂などの曲輪を連郭・梯郭状に配した縄張を持つ。尾根筋を断ち切る深大な大堀切や空堀、斜面に穿たれた竪堀、主郭周辺の野面積み石垣(石積み)、重厚な土塁、切岸、籠城用井戸跡が明瞭に遺存する。関ヶ原合戦前夜の激戦地としても名高い。
歴史的役割
越前・加賀の国境地帯(越前境)を直接扼する北陸道屈指の軍事中枢であり、加賀一向一揆抗争から織豊政権の北陸支配、関ヶ原合戦の前哨戦に至るまで歴史的動乱の舞台となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、石田三成ら西軍に呼応した城主・山口宗永(玄蕃頭)および修弘父子は当城に籠城。徳川家康ら東軍に属した金沢城主・前田利長軍2万の大軍を相手に熾烈な攻城戦(大聖寺城の戦い)を展開した。前田軍の猛攻により城は1日で落城し、宗永父子は自刃した。合戦後、前田利長は重臣・佐久間安政を城代に置いたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。その後、寛永16年(1639年)に加賀藩前田家第3代・前田利常の三男・利治が10万石を分封されて大聖寺藩が成立すると、錦城山山麓に大聖寺藩陣屋が置かれ明治に至るまで領国統治の政庁となった。国境城塞の変遷を今に伝える貴重な遺構である。
見どころ
錦城山山頂に削平された広大な「本丸跡(主郭)」および尾根筋に連なる「二の丸・三の丸・西の丸・東出丸」の曲輪群、尾根続きからの侵攻を峻険に遮断する深大な「大堀切」および斜面に掘削された「竪堀」・「空堀」遺構、本丸周辺や虎口付近に遺存する織豊期の「野面積み石垣(石積み)」および曲輪縁の「土塁」、山腹を削り落とした威圧的な「切岸」と山上の「古井戸跡」、山頂展望台から眼下に広がる城下町大聖寺の町並み・大聖寺川・遠く日本海および白山連峰を一望する大パノラマ眺望、山麓寺院群の実性院に移築現存する「旧大聖寺藩陣屋長屋門」、前田利治公銅像および錦城山公園内に設置された加賀市指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板