概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
松倉城(まつくらじょう)は、富山県魚津市鹿熊に所在する標高約430メートル(比高約350メートル)の険峻な山頂に築かれた越中屈指の規模を誇る中世山城跡である。富山県指定史跡。南北朝期に南朝方の普門俊清が築いたことに始まると伝わり、室町から戦国期には新川郡の守護代・椎名氏累代の本拠となった。最高所の本丸(主郭)を中心に、二の丸、三の丸、御蔵屋敷、鐘撞堂などの大規模な曲輪群を尾根上に階郭・連郭状に配する。背後や尾根筋を遮断する深大な堀切、斜面に穿たれた竪堀群、主郭周辺の重厚な土塁や切岸、野面積み石垣(石積み)、湧水井戸跡が極めて明瞭に遺存する。周囲に枡形城や北山城など支城群(松倉十七支城)を網の目のように配置し、近隣の松倉金山(越中三大金山)を直下に掌握した強大な山岳要塞地帯を形成していた。
歴史的役割
新川郡支配の中枢であり、上杉謙信・武田信玄・織田信長ら天下の諸勢力が激突した越中争乱の焦点として極めて重要な役割を果たした。城主・椎名康胤は当初越後の上杉謙信に従い神保氏と戦ったが、後に甲斐の武田信玄に通じて謙信に叛旗を翻した。元亀2年(1571年)から同3年にかけて激怒した上杉謙信の包囲攻撃を受け、100日以上にわたる熾烈な攻防戦の末に落城。以後は上杉方の越中支配の軍事拠点となり、河田長親や鰺坂長実ら上杉家臣が城代として入った。天正年間、織田信長配下の柴田勝家・佐々成政らが越中へ侵攻すると魚津城とともに激戦の舞台(魚津城の戦い)となり、本能寺の変直後に織田軍の手に落ちた。佐々成政領となった後に廃城となったが、金山支配と連動した堅固な城郭網は中世越中武士の軍事・経済基盤を如実に示す。
見どころ
標高430mの山頂に広大に削平された「本丸跡(主郭)」および尾根筋を取り巻く「二の丸・三の丸・御蔵屋敷」等の巨大曲輪群、尾根続きからの進攻を鋭利に封殺する深大な「大堀切」および山腹斜面に掘削された「竪堀群」・「空堀」、本丸縁辺部に明瞭に残存する「土塁」および古態を示す「野面積み石垣(石積み)」、山腹を削り落とした威圧的な「切岸」と山頂部の豊かな「井戸跡」、本丸展望台から眼下に広がる魚津市街・富山湾の青い海・能登半島・新川平野および背後に聳える僧ヶ岳・北アルプス連峰の360度大パノラマ、登城口に整備された富山県指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板