概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
小丸城(こまるじょう)は、福井県越前市五分市町に所在する武生盆地東縁の舌状低位段丘先端部(標高約68m、比高約25m)に築かれた織豊期の平山城跡である。福井県指定史跡。天正3年(1575年)の織田信長による越前一向一揆平定後、府中十万石を分領された「府中三人衆(柴田勝豊・前田利家・不破光治・佐々成政)」の一人である佐々成政が居城として築城した。丘陵最高所の本丸を中心に二の丸、三の丸、外郭を階段状に配した縄張を持つ。発掘調査では本丸周囲を固めた野面積み石垣(石積み)や虎口、深大な空堀・堀切、土塁、切岸、井戸跡が確認された。また昭和7年の発掘時に出土した瓦の裏面から、信長による越前一向一揆の残虐な処刑・弾圧の様子(前田利家らによる千人磔刑記録)を生々しく刻んだ「文字瓦(刻書瓦)」が発見され、日本中世・戦国史の超一級文字資料として著名である。
歴史的役割
越前国平定直後における織田政権の在地支配拠点として、府中三人衆体制下での治安維持および一向一揆残党に対する抑えの軍事中枢を担った。信長は越前平定後、柴田勝家を北ノ庄城に置き越前一国を統括させる一方、府中三人衆に南越前を共同統治させ、成政は当城を本拠として領国経営に当たった。出土した刻書瓦に「前田又左衛門殿(利家)取越前府中にて壱ツ引ニ千人計生害させられ候」と記されていたことは、当城築城期に織田軍が遂行した徹底的な一揆鎮圧と武力支配の実態を直接証明する決定的な物証となった。成政は天正9年(1581年)に越中平定の功により越中富山城へ転封となり、当城はわずか数年で廃城となった。織豊政権による越前再編の過渡期における築城技術(最初期の野面積み石垣導入)と苛烈な支配政治の実態を克明に伝える極めて重要な遺跡である。
見どころ
昭和7年に出土し信長・前田利家の一揆処刑の過酷な実相を刻み国の重要文化財級の価値を持つ「一向一揆文字瓦(刻書瓦)」出土遺構地、本丸の縁辺部に遺存し織豊期最初期の様相を留める「野面積み石垣(石積み)」および「土塁」痕跡、本丸と二の丸間を鋭利に遮断する深大な「空堀(堀切)」および「切岸」地形、本丸北東部に遺存する籠城用「古井戸跡」、低位段丘の山頂から眼下に広がる五分市集落・越前市(武生)街並み・日野山および日野川流域の眺望景観、登城口および城跡広場に整備された福井県指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板