概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
喜多見陣屋(きたみじんや)は、東京都世田谷区喜多見四丁目に所在する野川と多摩川に挟まれた沖積平野(標高約20メートル)に築かれた近世陣屋・中世居館跡である。中世武蔵の名族・武蔵江戸氏の後裔である喜多見氏の累代の館跡(喜多見館)を起源とする。天正18年(1590年)の徳川家康関東入国に際し、江戸(喜多見)勝忠は本領安堵を受けて旗本となった。その後、第4代・喜多見重政が第5代将軍・徳川綱吉の側用人として重用され、天和3年(1683年)に加増を受けて1万石から2万石の大名に昇格、喜多見藩を立藩したことで館を拡張して陣屋を設営した。方形の主郭を中心に堀と土塁を巡らせ、役所や武家屋敷が整備された。元禄2年の改易によりわずか数年で廃陣となったが、隣接する菩提寺・慶元寺境内や周辺住宅街に土塁・堀跡の段差、切岸状地形、井戸跡が残る。
歴史的役割
中世豪族江戸氏の生き残りと、徳川綱吉治世初期の側用人政治の盛衰を象徴する極めて重要な歴史的拠点である。江戸氏は平安末期から室町期にかけて武蔵国江戸郷(現・皇居周辺)を本拠とした有力武士団であったが、太田道灌の江戸城築城により領地を追われ、当喜多見(木田見)の地に移住・定着した。戦国期には世田谷吉良氏や後北条氏に属し、北条滅亡後は徳川家康に恭順。氏を「喜多見」と改め旗本として仕えた。徳川綱吉の信頼を得た喜多見重政は側用人兼小姓組番頭として権勢を振るい、現在の東京都区部では数少ない大名領として喜多見藩2万石が成立した。しかし元禄2年(1689年)、重政の親族による刃傷事件に連座し、突如改易・配流処分となり藩は一代で消滅した。中世豪族の居館から江戸近郊の近世大名陣屋へと昇華した特異な変遷を伝える遺構である。
見どころ
喜多見氏(武蔵江戸氏)累代の菩提寺・慶元寺境内周辺に残る「陣屋跡・居館跡」の平坦面、慶元寺の墓所周辺や敷地縁辺部に明瞭に遺存する防衛用の「土塁」および「堀跡」の凹地形、野川低地へ落ち込む段丘状の「切岸」地形、喜多見陣屋の生活・飲料水源として機能した「井戸跡」、慶元寺境内に並ぶ壮壮たる「東京都指定史跡・喜多見氏歴代墓碑群(五輪塔・宝篋印塔)」および中世武将「江戸重長(江戸太郎)像」、世田谷区教育委員会設置の喜多見陣屋・慶元寺解説案内板、国分寺崖線の湧水群と緑豊かな武蔵野の寺社景観
ご当地グルメ
概要・現地案内板
喜多見藩は、武蔵国多摩郡(現・世田谷区喜多見)を治めた藩である。
五代将軍・徳川綱吉の寵愛を受けた喜多見重政は旗本から大名に昇格すると、喜多見藩の立藩と築城を許され、喜多見陣屋(喜多見城)を創建。
その諸費用を綱吉から下賜されていて、江戸幕府の足元である立地にありながら築城が許された事からみても、重政がいかに寵愛されていたかが窺える。
現在の東京23区内で唯一、藩庁と領地が置かれていた。
城犬のおいど 攻城記録
氷川神社
氷川神社の創建は古く、天平12年(740)に素戔嗚尊 を奉祀したことに始まると伝えられています。永禄13年(1570)には、この地の領主江戸刑部頼忠 により再興されました。その子孫喜多見勝忠が神領五石二斗を寄進したほか、社前の二の鳥居は承応3年(1654)に喜多見重恒、重勝兄弟によって建立寄進されるなど、

江戸・喜多見氏とゆかりの深い神社です。また、慶安2年(1649)、徳川家光より十石二斗余りの朱印状を与えられ、以降、将軍家より8通の朱印を受けています。
※現地看板より


龍石


拝殿

氷川神社改築記念之碑

七つ宮



立石大神


歴史の道

2025/6最終訪問
