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100名城・続100名城 165
別称 勝竜寺城、青竜寺城、村岡城、勝龍寺城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 あり
標高 15.8m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平城
曲輪配置梯郭式・連郭式複合
築城者細川頼春(細川藤孝改修)
築城年南北朝時代(暦応年間・1339年頃細川氏、元亀2年・1571年細川藤孝大改修)
廃城年慶長年間初期頃(江戸初期山城国代官陣屋機能移転に伴い廃城)
主な城主細川氏、三好氏、岩成氏、明智氏
指定文化財市町村区指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造代用櫓 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓あり(模擬隅櫓・模擬多門櫓)
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門あり(模擬城門・高麗門および冠木門)
現存土塀なし 再建土塀あり(模擬土塀)
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり・空堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:15.8m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都府長岡京市勝竜寺に所在する小畑川と犬川の合流点付近の平野部に築かれた中世・織豊期の平城跡である。長岡京市指定史跡、続日本100名城(165番)。南北朝期に細川頼春が北朝方の拠点として築いたことに始まると伝わる。元亀2年(1571年)、織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)が南山城支配の拠点として大改修。本丸を中心に沼田丸(北西)、神足屋敷(外郭)を配し、周囲に二重の堀と土塁、瓦葺き建物や野面積み石垣を張り巡らせた「織豊系城郭の先駆」である。発掘調査では石垣、石畳通路、礎石建物跡、転用石仏、国内最古級の軒丸瓦・瓦が出土。現在は勝竜寺城公園として整備され、本丸跡に模擬隅櫓、模擬多門櫓、城門、土塀、水堀が美しく復元されている。細川忠興と明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)の新婚の地としても広く知られる。

⚔️ 歴史的役割

山崎の狭隘部を控えて西国街道と丹波街道が交差する京都防衛・交通の咽喉部を扼する軍事的最重要拠点であり、畿内の覇権争いにおいて決定的な役割を果たした。室町・戦国期を通じて三好三人衆の岩成友通が拠点としたが、永禄11年(1568年)に信長が上洛戦で攻略。信長配下の細川藤孝が入城して最新の城郭へと改修し、信長の京都進発の兵站・迎賓拠点となった。天正10年(1582年)の本能寺の変直後の「山崎の戦い(天王山の戦い)」では、羽柴秀吉軍と激突した明智光秀が当城を本陣・前線司令部として布陣。合戦に敗れた光秀は当城へ逃れ籠城したが、秀吉軍の包囲が迫る中で深夜に城を脱出し、坂本城へ向かう途上の小栗栖で落武者狩りに遭い討死した。近世初頭の城郭構造改革の原点と山崎決戦の終焉を今に伝える極めて重要な史跡である。

👀 見どころ

勝竜寺城公園として整備された「本丸跡(主郭)」および「沼田丸」の平城曲輪群、発掘遺構に基づき外観復元された優美な「模擬隅櫓(展示室)」・「模擬多門櫓」および「本丸模擬城門(高麗門)」・「模擬土塀」、本丸周囲を巡り水を湛える「水堀」および「土塁」・「空堀」遺構、発掘調査で検出された織豊期初期の貴重な「野面積み石垣(石積み)」および五輪塔などの「転用石仏群」、本丸内の「古井戸跡」および石畳通路遺構、細川忠興と玉(ガラシャ)の愛の物語を顕彰する「忠興・ガラシャ像」・ガラシャおもかげの水、長岡京市指定史跡標柱・詳細な発掘解説板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR京都線長岡京駅東口から南東へ徒歩約10分、または阪急京都線西山天王山駅東口から北東へ徒歩約15分、勝竜寺城公園入口すぐ(長岡京市勝竜寺・東神足二丁目、小畑川と犬川に挟まれた平地一帯、主郭標高約18m、周囲低地平城)

車でのアクセス

名神高速道路・京都縦貫自動車道 長岡京ICから府道10号・府道67号(西国街道)経由で北へ車で約5分、または大山崎ICから約10分

駐車場

有(勝竜寺城公園駐車場、普通車無料約10台)

📍 周辺地図

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