概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | あり(元:陣屋御殿・藩庁、先:京都市相国寺林光寺本堂) | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | あり(元:陣屋勘定部屋、先:町内移築現存) | 移築門 | あり(元:城門・武家屋敷門、先:町内渡辺家住宅・寺院等) |
| 遺構 | 水堀あり・空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
日野城(ひのじょう・地元呼称:中野城)は、滋賀県蒲生郡日野町大字西大路に所在する日野川右岸の標高約215メートル(比高約15メートル)の河岸段丘上に築かれた平山城・城館跡である。日野町指定史跡。天文3年(1534年)頃、音羽城を本拠としていた名族・蒲生定秀が平野部の要衝に本拠を移して築城した。戦国屈指の名将・蒲生氏郷の生誕地として名高い。約100メートル四方の本丸(主郭)を中心に二の丸、三の丸、武家屋敷街を連郭・梯郭状に配し、高土塁と水堀・空堀で厳重に防御した。昭和40年の日野川ダム建設に伴い城域の南半分はダム湖(日野川ダム)下に沈んだが、現在も本丸北西の高土塁、水堀(中野池)、堀切、石積み(石垣)痕跡、古井戸跡が明瞭に残る。近世には仁正寺藩(西大路藩)市橋氏の陣屋(仁正寺陣屋)が置かれ、御殿(京都相国寺林光寺本堂)や勘定部屋、武家屋敷門が移築現存する。
歴史的役割
近江南部と伊勢国(鈴鹿峠・八風街道)を結ぶ交通・通商の結節点を抑える政治・軍事の中枢であり、本能寺の変における決定的な歴史的役割を果たしたことで名高い。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、安土城留守居を務めていた氏郷の父・蒲生賢秀は、明智光秀の誘いを断固拒絶して織田信長の正室・濃姫や妻子・一族を安土から当城(中野城)へと迅速に避難・保護した。城主・蒲生氏郷とともに城を固めて光秀軍の進攻を完全に阻止し、信長遺族を守り抜いた忠節は織田家・羽柴秀吉から絶賛された。秀吉の天下統一後、氏郷は伊勢松坂、さらに会津黒川(会津若松92万石)へ加増転封。江戸初期の元和6年(1620年)に市橋長政が2万石で入封して仁正寺藩を立藩し、旧城曲輪を利用して陣屋を設営。幕末に西大路藩と改称し明治維新まで存続した。近江土豪の居城から大名城下町、近世陣屋へと継承された屈指の名城跡である。
見どころ
日野川ダム湖畔に遺存する方形の「本丸跡(主郭)」および「二の丸・仁正寺陣屋跡」の遺構面、本丸北西面を囲むように聳える高さ約3〜4mの重厚な「高土塁」および水を湛える「水堀(中野池)」・「空堀」遺構、本丸周囲に遺存する「野面積み石垣(石積み)」痕跡および段丘崖の「切岸」、長期生活を支えた「井戸跡」、京都市上京区の相国寺塔頭・林光寺本堂に移築現存する「旧仁正寺陣屋御殿(藩庁)」および日野町内に移築現存する「旧陣屋勘定部屋」・「渡辺家武家屋敷門」、ダム湖畔に立つ「中野城址碑」・「蒲生氏郷公産湯の井戸跡石碑」・「藩主市橋氏邸址碑」および詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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