概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
有智山城は、福岡県太宰府市大字内山の霊峰・宝満山(標高829.6m)西側中腹、標高約310〜320メートル付近に張り出した「九重原(有智山寺坊跡)」の尾根筋に築かれた山城跡である。鎌倉期に大宰少弐職・筑前守護を務めた少弐氏が、平時の居館(太宰府天満宮西方の浦ノ城)に対する詰城・本城として構えた。尾根上を平坦に削平した主郭部を中心に帯曲輪が配され、南西尾根を遮断する幅約10メートルの大規模な横堀(空堀)と土塁、その中央部に土橋を架けて石積(石垣)を施した虎口・大手門跡などの防御遺構が山林内に良好に遺存している。近年では戦国末期に宝満山城や岩屋城を領した高橋氏の出城・支城網としての機能も指摘されている。
歴史的役割
鎌倉幕府の鎮西奉行・太宰少弐職に任ぜられた武藤資頼(少弐氏の祖)またはその一族によって築かれたと伝わる。建武3年(1336年)、足利尊氏を赤間関へ迎えに行った少弐頼尚の留守中、南朝方の菊池武敏や阿蘇惟直らに攻められ、頼尚の父・少弐貞経が籠城戦の末に自刃した舞台として名高い。南北朝期には九州探題・今川了俊配下の大内義弘による攻撃を受け、少弐頼澄が敗れるなど、大宰府の覇権をめぐる激戦地となった。その後、大内氏の筑前進出により少弐氏は肥前へ拠点を後退させ、戦国期には大友氏配下の高橋鑑種・高橋紹運らが宝満山城とともに修聞・活用したとみられるが、天正年間の岩屋城の戦いや九州平定を経て役目を終え廃城となった。
見どころ
南西側尾根を厳重に遮断する幅約10mの深大な横堀(空堀)および土塁遺構、横堀中央の土橋と枡形状に石積みが残る大手門跡(石垣遺構)、尾根上の平坦段(曲輪群)と切岸地形、修験道の聖地・有智山寺(九重原坊跡)と山城が融合した中世山岳要塞の景観、宝満山内山谷を見下ろす山頂部の眺望
ご当地グルメ
梅ヶ枝餅、太宰府八ちゃんラーメン、博多もつ鍋、水炊き、辛子明太子