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100名城・続100名城 -
別称 古賀城跡、古賀館、若松城
城址碑 あり
案内板 なし
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 8.4m

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平城
曲輪配置単郭式
築城者岩橋宗岸
築城年戦国時代
廃城年天正14年(1586年)
主な城主岩橋氏、筑紫氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり
※ 基本情報等については、AIを利用して情報収集しているため、誤り等がある可能性が御座います。誤情報や指摘等がありましたらコメントでお知らせください。

📜 概要

古賀城(古賀館)は、福岡県久留米市宮ノ陣町若松(旧古賀村)の筑後川北岸平野部に位置した中世平城(平地城館)跡である。筑後川とその支流や水路網に囲まれた低湿地平野の微高地を占地し、周囲に水堀(天神堀などのクリーク遺構)を巡らせた典型的なクリーク城郭・館跡の構造を呈していたと推測される。現在、城域周辺は住宅地および農地となっており地上の土塁や建築遺構は消滅しているが、かつての堀跡の痕跡を伝える水路(天神堀)や周辺地名に往時の面影をとどめている。現地集落内には「古賀城跡」と刻まれた石造の城址碑が建立されている。

⚔️ 歴史的役割

筑前・筑後国境地帯に勢力を張った戦国領主・筑紫広門(勝尾城主)の家臣・有力与力であった岩橋氏(岩橋宗岸・岩橋麟迦ら)の居城・端城として機能した。筑後川北岸の渡河点や街道を押さえる軍事・交通監視の要衝に位置した。天正14年(1586年)、九州制覇を目指す島津義久・義弘率いる島津大軍が北上侵攻した際、島津軍の渡河迎撃・防衛ラインの一つとなったが、岩橋氏は防戦しきれず城と城下町を自ら焼き払って退却、あるいは急襲を受けて落城したと記録される。島津軍はこの後さらに北上して小郡方面や岩屋城へと進軍しており、豊薩合戦・筑前侵攻の激戦地となった。

👀 見どころ

現地集落内に建つ「古賀城跡」石碑、城郭の防壁水路跡を今に伝える天神堀(菊姫伝説・御供納行事の地)、筑後川北岸平野の歴史的景観

🍲 ご当地グルメ

久留米ラーメン、久留米焼きとり、筑後うどん、骨付きカルビ、あまおうスイーツ


おいど攻城記録

城址碑


古賀城ハ岩橋氏ノ居城タリ 岩橋氏ノ祖ハ大和国ヨリ出ヅ 神功皇后ノ三韓征伐ニ従ヒ功アリ 川北九十六ヶ村ヲ賜フ  戦国時代ノ末期 津島守宗岸ト言フ者アリ 母ハ大友宗麟ノ姉ニシテ室ハ筑紫氏ナリ 二子アリ 長ヲ菊姫 次ヲ松王丸ト言フ  秋月種実、菊姫ヲ請フ 既ニ高橋家ト約アルヲ以テ応ゼズ 種実忿リ 薩州ノ援軍ヲ得テ 岩橋 筑紫 高橋ノ三家ヲ滅ボサント欲ス  天正十四年 薩兵大挙シ来ル 宗岸 兵火ノ領民ニ及ブヲ慮リ 城郭ヲ焼キテ筑紫勢ト共ニ鷹取城ニ拠リ 之ヲ邀ヘ戦フ  苦戦数刻 敵将川上左京ト互刺シテ死ス 宗岸時ニ三十九歳ナリ 程無ク両軍高良山上ニ於テ和ス 松王丸ハ九歳ナリシガ難ヲ避ケテ筑前名島城ニアリ  長ジテ故地ニ帰リ薙髪シ 新左衛門尉麟可ト称シ 古賀村百五十石ヲ其ノ隠居料トス 其ノ縁者此ノ地ニ住ム者多シ 城亡ビ 既ニ三百八十年 往時茫々知ル人漸ク稀ナリ  此ニ於テ 聊カ碑ニ題シテ後人ニ伝ヘントスルモノナリ 


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