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100名城・続100名城 -
別称 下高橋城、下高橋館、高橋古城
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 10.3m
最終訪問日 2026-09-12

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平城
曲輪配置複郭式・連郭式複合
築城者高橋氏
築城年南北朝時代
廃城年弘治年間(1555~1558年)頃
主な城主高橋氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 水堀あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:10.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

高橋城(下高橋城)は、福岡県三井郡大刀洗町大字下高橋の下高橋竈門神社境内一帯に位置した中世平城(平地城館)である。陣屋川流域の沖積平野微高地に占地し、筑後国史の記録によると本丸は長さ約53間×幅約25間、二の丸は長さ約43間×幅約20間の規模を誇り、東・西・南に幅2間〜3間半の二重・三重の水堀を同心円・複郭状に巡らせていた。周辺には「木戸」「溝口」「屋敷」などの城館関連地名が残り、後世の圃場整備や宅地化を経た現在も神社東側・南側をめぐる水路に堀跡の輪郭をとどめている。境内には「高橋城跡」の解説案内板や城主一族の供養塔とされる石造宝篋印塔群(高橋様)が安置されている。

⚔️ 歴史的役割

平安中期の藤原純友の乱を鎮圧した大蔵春実の後裔が上高橋から下高橋へと拠点を移し、本格的な複郭平城として築いた居城である。南北朝期から戦国時代にかけて筑後平野北部に強固な勢力を築いた在地豪族・高橋氏歴代の主城として機能した。戦国期には大友宗麟の傘下に入り、武勇に優れた高橋三河守鑑種を輩出した。鑑種は大友氏の軍功により筑前岩屋城および宝満城を与えられて本拠を筑前へ移転したため、下高橋城は城郭としての主機能を終えたとされる。その後、永禄・元亀年間の大友・龍造寺・秋月氏らの激しい角逐の舞台となった筑後平野において、高橋氏発祥の由緒ある城館跡として記録され続けた。

👀 見どころ

竈門神社境内周囲に残存する水堀(クリーク)の流路痕跡、境内に建つ高橋城跡解説案内板および石碑、高橋氏歴代の供養塔と伝わる石造宝篋印塔群(高橋様)、微高地をなす主郭境内

🍲 ご当地グルメ

大刀洗レタス・野菜料理、馬刺し・馬肉料理、久留米ラーメン、筑後うどん、あまおうスイーツ


おいど攻城記録

水堀


下高橋竃門神社


高橋城跡


中世の豪族「高橋氏」の居城跡で、現在の竃門神社境内を中心とした一帯が城跡のようで、「木戸」・「溝口」・「屋敷」などの地名と、北・西・南を巡る堀が残ってい ました。「筑後国史」には、「平城なり、縦五十三間、横二十五間、東に広さ三間の堀あり。西にまた二つあり。一つは広さ三間半、一つは二間の堀あり。二の丸は縦四十三間、横二十間、東西に広さ三間、南に二間の堀がある。高橋三河守鑑種先祖より続きたる采地の城なり。鑑種、大友の賞によって筑前岩屋の城を賜りこれに移る。」とあります。

(一間は約一.ハメートル) 高橋氏の祖は大蔵春実で、藤原純友の乱(九三九年)平定のてがらにより、上高橋・今・鵜木・下高橋を領地とし、当初上高橋城を居城としていました。また、地名をとって「高橋氏」と名乗っていました。室町時代の高橋長種には跡継ぎがなく、豊後の戦国大名大友宗麟は、名家の絶えることを惜しみ、一族の一万田右馬助に高橋家の家名を継がせ、高橋三河守鑑種と名乗らせました。その後、高橋氏は居城を上高橋城からここ下高橋の地に移し、弘治年間(1555~1558年)に筑前岩屋城に移すまでここを居城としていました。境内に残る宝篋印塔は「高橋様」と呼ばれ、高橋氏ゆかりのものといわれています。 
※現地説明版より

主郭


城址碑


拝殿


御神木


本殿


忠魂碑



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