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100名城・続100名城 -
別称 二色城、二部要害、高富城、二部城跡
城址碑 なし
案内板 なし
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 92.8m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別砦
縄張山城
曲輪配置連郭式
築城者二部小山氏
築城年室町時代後期(戦国時代)
廃城年天正13年(1585年)頃羽柴秀吉の紀州征伐期
主な城主小山氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・横堀あり・切岸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:92.8m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

二部城(にべじょう)は、和歌山県東牟婁郡串本町二色および高富の境に所在する高富川と二色川に挟まれた標高約51メートル(比高約47メートル)の独立尾根頂部に築かれた中世山城(砦)跡である。通称「二色城」「二部要害」。城名の「二部」は丹生と同様に赤土等の土色に由来すると伝わる。熊野中世の有力豪族・古座小山氏の分家筋とみられる二部小山氏によって築城された。太平洋(熊野灘)から内陸へ入り込む谷筋と沿岸平野部を扼する位置にあり、海上からの侵攻に対する迎撃・警戒を主眼に置いた海防城砦としての性格を持つ。山頂の最高所に主郭を構え、尾根筋に沿って段状の曲輪群を展開。主郭背後の尾根を遮断する堀切や、斜面を警戒する横堀状空堀、人工的な急傾斜を施した切岸が明瞭に残存する。本州最南端の潮岬周辺における中世在地武士団の防衛遺構を今に留めている。

⚔️ 歴史的役割

本州最南端の要衝・潮岬および潮崎荘周辺の海上交通・水運を監視・警備した在地国衆・小山氏一族の軍事拠点として機能した。古座川河口を中心に勢力を誇った古座小山氏は熊野水軍の重要勢力であり、その庶流である二部小山氏は二色・高富一帯の谷筋農地と海浜湊を掌握して本家を支えた。戦国後期、南紀一帯では新宮の堀内氏や熊野別当家の勢力拡大に伴い在地豪族間の抗争が激化。さらに天正13年(1585年)の羽柴秀吉(豊臣秀吉)による紀州征伐において、秀吉配下の軍勢が南紀各地に侵攻すると、小山氏一族の諸城郭とともに二部城も軍事的役割を終えて廃城となった。黒潮が洗う串本沿岸部と奥山を結ぶ交通路に睨みを利かせ、有事の物見・詰所・防衛陣地を担った典型的な熊野沿岸部山城の実態を示す重要な歴史遺構である。

👀 見どころ

高富川と二色川の合流点を見下ろす山頂に削平された「主郭(本丸跡)」および尾根沿いの「削平曲輪群」、背後尾根からの敵の侵攻を鋭く断ち切る「堀切」および斜面に巡らされた「横堀」遺構、山腹を急峻に削り落として防禦性を高めた「切岸」地形、城山の南麓に鎮座し二部・高富の産土神として信仰を集める「矢倉神社」、山頂曲輪から木々の合間に望む高富・二色の町並みおよび太平洋(熊野灘)方面の眺望

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

JR紀勢本線(きのくに線)串本駅から串本町コミュニティバス(高富線または田並・潮岬方面行等)で約10分「高富」または「二色」下車徒歩約5〜8分、南麓の矢倉神社裏手より山頂主郭まで山道・尾根筋を徒歩約10〜15分(東牟婁郡串本町二色・高富境、高富川と二色川に挟まれた尾根頂部一帯、標高約51m、平地比高約47m)

車でのアクセス

紀勢自動車道 すさみ南ICから国道42号経由で東へ車で約30分、または那智勝浦ICから国道42号経由で南西へ約35分

駐車場

なし(矢倉神社前参道スペースまたは二色集落公民館周辺の空地を利用、約2〜3台)

📍 周辺地図

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