概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 初期望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
多聞城(たもんじょう)は、奈良県奈良市法蓮町の東大寺北西に位置する標高約115メートル(比高約30メートル)の独立丘陵「眉間寺山(多聞山)」に築かれた戦国屈指の先進的平山城跡である。通称「多聞山城」。畿内を制覇した戦国武将・松永久秀が三好政権下の大和支配の拠点として築城した。山頂の主郭(若草中学校)を中心に四方に土塁や石垣を巡らせ、周囲に深い堀切・空堀を穿った連郭式縄張を持つ。石垣上に白漆喰総塗籠の壮麗な長屋状多層櫓(多聞櫓の語源とされる)や四層天守を連ね、宣教師ルイス・フロイスをして「世界のいかなる建造物にも比肩しうる美しさ」と絶賛せしめた近世織豊系城郭の先駆的遺構である。現在は若草中学校の敷地等となり、校門脇に城址碑と案内板が立つほか、学校東・南側の法面に切岸や石垣石材、北東側の谷筋に堀切・空堀地形が良好に遺存する。
歴史的役割
中世仏教勢力・興福寺や筒井氏が割拠した大和国を武力と近代的手法で一元統治するための軍事・政治・文化の中枢として歴史的役割を果たした。久秀は当城を拠点に東大寺大仏殿の戦いなどを戦い抜き、武家権力を誇示するため豪華絢爛な障壁画や庭園を備えた城郭御殿を造営、茶の湯の舞台ともした。織田信長の上洛後は信長に恭順したが、やがて反旗を翻し降伏。天正元年(1573年)に信長へ城を明け渡すと、信長は塙直政らを城番に配置し大和支配の拠点とした。しかし天正4年(1576年)、信長は大和支配を筒井順慶に委ねる過程で当城の徹底破却を命じ、天守や櫓等の建造物・石垣は解体されて信長の居城である安土城や京都二条城の築城資材として搬出され廃城となった。中世土豪の山城から近世石垣・天守建築へのパラダイムシフトを決定づけた日本城郭史上の金字塔的要塞である。
見どころ
城郭建築「多聞櫓」の語源・発祥の地とされる主郭跡(若草中学校校庭)の広大な平坦面、学校敷地南東面や斜面に遺存する中世石垣の「石積み・抜取跡石材」および威圧的な「切岸」地形、北側尾根筋を遮断し今も深い谷を残す「堀切・空堀」痕跡、主郭北東隅に遺存する籠城用の「古井戸跡」および土塁痕跡、若草中学校正門横に建立された「多聞山城跡碑」および詳細な城郭解説案内板、主郭高台から南に東大寺大仏殿・若草山・興福寺五重塔・奈良盆地を一望する絶好の眺望景観