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100名城・続100名城 -
別称 多聞山城、多聞山要害、眉間寺山城、多聞城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 110.5m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者松永久秀
築城年永禄2年(1559年)頃
廃城年天正4年(1576年)織田信長の命により破却・廃城
主な城主松永氏、織田氏(柴田氏、塙氏)
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造独立式 天守形式初期望楼型
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:110.5m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

多聞城(たもんじょう)は、奈良県奈良市法蓮町の東大寺北西に位置する標高約115メートル(比高約30メートル)の独立丘陵「眉間寺山(多聞山)」に築かれた戦国屈指の先進的平山城跡である。通称「多聞山城」。畿内を制覇した戦国武将・松永久秀が三好政権下の大和支配の拠点として築城した。山頂の主郭(若草中学校)を中心に四方に土塁や石垣を巡らせ、周囲に深い堀切・空堀を穿った連郭式縄張を持つ。石垣上に白漆喰総塗籠の壮麗な長屋状多層櫓(多聞櫓の語源とされる)や四層天守を連ね、宣教師ルイス・フロイスをして「世界のいかなる建造物にも比肩しうる美しさ」と絶賛せしめた近世織豊系城郭の先駆的遺構である。現在は若草中学校の敷地等となり、校門脇に城址碑と案内板が立つほか、学校東・南側の法面に切岸や石垣石材、北東側の谷筋に堀切・空堀地形が良好に遺存する。

⚔️ 歴史的役割

中世仏教勢力・興福寺や筒井氏が割拠した大和国を武力と近代的手法で一元統治するための軍事・政治・文化の中枢として歴史的役割を果たした。久秀は当城を拠点に東大寺大仏殿の戦いなどを戦い抜き、武家権力を誇示するため豪華絢爛な障壁画や庭園を備えた城郭御殿を造営、茶の湯の舞台ともした。織田信長の上洛後は信長に恭順したが、やがて反旗を翻し降伏。天正元年(1573年)に信長へ城を明け渡すと、信長は塙直政らを城番に配置し大和支配の拠点とした。しかし天正4年(1576年)、信長は大和支配を筒井順慶に委ねる過程で当城の徹底破却を命じ、天守や櫓等の建造物・石垣は解体されて信長の居城である安土城や京都二条城の築城資材として搬出され廃城となった。中世土豪の山城から近世石垣・天守建築へのパラダイムシフトを決定づけた日本城郭史上の金字塔的要塞である。

👀 見どころ

城郭建築「多聞櫓」の語源・発祥の地とされる主郭跡(若草中学校校庭)の広大な平坦面、学校敷地南東面や斜面に遺存する中世石垣の「石積み・抜取跡石材」および威圧的な「切岸」地形、北側尾根筋を遮断し今も深い谷を残す「堀切・空堀」痕跡、主郭北東隅に遺存する籠城用の「古井戸跡」および土塁痕跡、若草中学校正門横に建立された「多聞山城跡碑」および詳細な城郭解説案内板、主郭高台から南に東大寺大仏殿・若草山・興福寺五重塔・奈良盆地を一望する絶好の眺望景観

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

近鉄奈良線近鉄奈良駅北口から北へ徒歩約15分、またはJR大和路線・桜井線奈良駅西口から奈良交通バス(青山住宅・州見台八丁目行等)で約8分「若草中学校前」下車徒歩約3分(奈良市法蓮町字多聞山・奈良市立若草中学校敷地および聖武天皇陵・光明皇后陵北側丘陵一帯、主郭標高約115m、佐保川平野部比高約30m)

車でのアクセス

京奈和自動車道 木津ICから国道24号経由で南へ車で約10分、または第二阪奈道路 宝来ICから国道369号経由で東へ約15分

駐車場

なし(若草中学校敷地のため一般駐車場なし、近隣の有料コインパーキング等を利用)

📍 周辺地図

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