概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
淡輪城(たんのわじょう)は、大阪府泉南郡岬町淡輪字城の藪に所在する大阪湾(紀淡海峡)沿岸の微高地に築かれた中世居館(平城)跡である。通称「淡輪邸」「淡輪氏屋敷」。鎌倉時代初期、源義経の郎党・佐藤忠信の子と伝わる淡輪重治が当地の地頭職を得て築城したことに始まると伝わる。淡輪氏は古代・中世の海運要衝である淡輪湊を拠点とした「和泉水軍」の在地領主(国人)として勢力を誇った。字「城の藪」と呼ばれる方形の曲輪跡を中心に周囲に堀や土塁を巡らせた典型的な中世平城・武家居館の縄張を持つ。現在は住宅地および農地が広がるものの、西林寺南側の民家脇にコの字状に巡る重厚な土塁が明瞭に残存しており、東側土塁上には淡輪城石碑、西側道路に面して岬町教育委員会による解説案内板が設置されている。
歴史的役割
和泉国南端の紀伊国境(孝子峠)および紀淡海峡の海上交通を掌握した和泉水軍の雄・淡輪氏累代の支配拠点として重要な役割を果たした。戦国期の城主・淡輪大和守(良重・徹斎)は織田信長に従い、天正5年(1577年)の雑賀攻め等で水軍力を発揮して軍功を挙げた。徹斎の娘「おこよ(小督の局)」は関白・豊臣秀次の側室となったが、文禄4年(1595年)の秀次失脚・切腹事件に連座して京都三条河原で処刑され、淡輪氏も所領を没収されて城は廃城となった。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徹斎の次男・淡輪重政(六郎兵衛)と兄・重利が豊臣方として参戦し、樫井の戦いにおいて塙団右衛門とともに討死を遂げた。淡輪一族の墓所(宝篋印塔)は現在も近隣の舩守神社や鴻ノ池畔に残り、中世水軍領主の興亡を今に伝えている。
見どころ
住宅街の一角に今なお良好な状態でコの字状に現存する中世居館の防壁「土塁」および山腹・敷地縁辺を削り落とした「切岸」痕跡、かつて周囲を取り巻いていた「堀跡」の凹地地形、土塁上部に建立された「淡輪城跡碑」および道路沿いに設置された岬町教育委員会による解説案内板、城跡の北側に隣接し淡輪氏ゆかりの古刹「西林寺」、大坂夏の陣・樫井合戦で討死した淡輪六郎兵衛重政の墓所碑が残る近隣の「舩守神社」および淡輪一族の宝篋印塔、紀淡海峡と淡輪港を眼前に望む海運要衝の景観
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。