概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
塩津浜城(しおつはまじょう)は、滋賀県長浜市西浅井町塩津浜に所在する琵琶湖北端の入江(塩津湾)沿岸低地に築かれた中世水城・武家居館跡である。通称「塩津城」「塩津浜館」。古代・中世を通じて北陸道と京都・近江を結ぶ日本海・琵琶湖水運の最重要結節点「塩津湊」に位置する。承久の乱(1221年)の軍功により塩津荘地頭職を得た名族・熊谷氏(熊谷直実の後裔)が累代の本拠・政庁として構えた。湊集落を背後から扼する平坦地を中心に、周囲に土塁や空堀・水堀を巡らせた平水城(方形館複合)構造を持つ。近年の塩津港遺跡(国史跡)発掘調査では、平安・鎌倉から戦国期に至る膨大な木簡や起請文、港湾施設、建物跡が検出され、当城が湊の流通税徴収や港湾警備を直接掌握していた実態が明らかとなった。現在は集落化・圃場整備が進むものの、土塁痕跡や地名、塩津港遺跡の展示施設にその面影を留める。
歴史的役割
北陸と畿内を結ぶ水陸交通の生命線「塩津街道・塩津湊」を統治した在地領主・熊谷氏の支配中枢であり、戦国期における浅井氏の北方防衛および織田信長の北陸平定戦の兵站要衝として極めて重要な役割を果たした。室町から戦国期にかけて熊谷氏は北近江の戦国大名・浅井氏に属し、越前朝倉氏との連絡・迎撃や湖上水運・水軍の管理を担った。元亀元年(1570年)の姉川の戦いや小谷城落城後は織田信長の支配下に組み込まれ、北陸の一向一揆平定や柴田勝家への物資補給路の要として機能。天正11年(1583年)の羽柴秀吉と柴田勝家による「賤ヶ岳の戦い」においては、前線玄蕃尾城・柳ヶ瀬方面と長浜・木之本を結ぶ直下の中継陣地として緊張の極みに達したが、合戦終結と近世城下町(長浜城・大溝城等)の整備に伴い居館としての役割を終え廃絶した。中世湖上交通と港湾支配の実態を証言する第一級の遺跡である。
見どころ
琵琶湖北端の良港「塩津湊」を眼前に直結させた中世平水城・港湾居館特有の立地構造、塩津神社周辺や集落内に痕跡を留める館区画の「土塁」および堀跡地形、近隣の「塩津港遺跡(国指定史跡)」発掘調査により出土した平安・鎌倉期の港湾遺構・波止場跡・木簡群(道の駅などで展示解説)、背後の険峻な山並みと穏やかな琵琶湖北端の湖面が織りなす奥琵琶湖の景勝美、塩津神社境内および道の駅あぢかまの里に設置された歴史解説案内板