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100名城・続100名城 -
別称 宇佐山要害、宇佐山城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 334.9m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式
築城者森可成
築城年元亀元年(1570年)織田信長の命により築城
廃城年元亀2年(1571年)比叡山焼き討ち後に坂本城へ機能移転し廃城
主な城主森氏、明智氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:334.9m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

宇佐山城(うさやまじょう)は、滋賀県大津市南滋賀町に所在する比叡山系の東南端・宇佐山(標高約336メートル、比高約250メートル)山頂部に築かれた織豊期の本格的連郭式山城跡である。元亀元年(1570年)、織田信長が浅井・朝倉連合軍および比叡山延暦寺の南下を阻止し、京都・近江間の連絡路を遮断・掌握するために重臣・森可成に命じて築かせた。山頂の主郭(現在は放送中継所)を中心に南北の痩せ尾根上に二の丸、三の丸、帯曲輪群を階段状に配置した縄張を持つ。主郭周囲には近江でも最初期に属する本格的な野面積み石垣(石積み)が明瞭に残存するほか、尾根筋を断ち切る堀切、山腹に落ちる竪堀、土塁、切岸、籠城用井戸跡が良好に遺存する。織田政権初期における石垣山城の先進的技法を示す城郭遺跡である。

⚔️ 歴史的役割

元亀争乱における織田信長包囲網打破の最前線拠点として決定的な軍事・戦略的役割を果たした。元亀元年(1570年)9月、浅井長政・朝倉義景の連合軍3万が南下した「志賀の陣(宇佐山城の戦い)」において、城主・森可成は信長の弟・織田信治らとともに坂本へ出撃して激戦の末に討死。しかし副将・各務元正や可成の家臣らは城に籠もって猛攻を耐え抜き、京都と岐阜を結ぶ信長の補給連絡線を死守した。救援に戻った信長は当城に入り浅井・朝倉軍と比叡山で対峙、朝廷を動かして和睦に持ち込んだ。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後、明智光秀に近江滋賀郡が与えられ琵琶湖畔に坂本城が築城されたことで軍事的役割を移譲し廃城となった。信長の天下布武を土台から支えた激闘の要塞である。

👀 見どころ

主郭(本丸跡)の東面・南面に明瞭に遺存し織豊系最初期の実態を物語る「野面積み石垣(石積み)」遺構、南北の尾根筋を鋭利に掘削して敵の侵入路を遮断した「堀切」および斜面に落ちる「竪堀」、主郭を取り巻く「土塁」および山腹を削り落とした険峻な「切岸」、長期籠城を支えた山頂付近の「井戸跡」、標高336mの山頂から眼下に広がる琵琶湖・近江大橋・大津市街・対岸の草津方面を一望する大パノラマ眺望、城の南麓中腹に鎮座し城内鎮守の性格を持つ「宇佐八幡宮」、山頂および登城路に設置された宇佐山城跡石碑・解説案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(1城)

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

京阪石山坂本線南滋賀駅から西へ徒歩約30分、または近江神宮前駅から徒歩約35分、宇佐八幡宮経由で山頂主郭まで登山約15〜20分(大津市南滋賀町・錦織・穴太境、宇佐山山頂一帯、主郭標高約336m、琵琶湖湖面比高約250m)

車でのアクセス

名神高速道路 京都東ICから西大津バイパス(国道161号)経由で北へ車で約15分、または大津ICから約20分

駐車場

なし(宇佐八幡宮参道脇または山麓の駐車可能スペース等を利用、約2〜3台)

📍 周辺地図

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