概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
曾根城(そねじょう)は、三重県尾鷲市曽根町に所在する熊野灘に面した良港・賀田湾北東岸の急峻な山稜頂部(標高約180メートル、比高約175メートル)に築かれた中世山城・水軍海城跡である。尾鷲市指定史跡。志摩・熊野国境沿いの在地土豪・曽根弾正忠によって築かれたと伝わる。南を賀田湾の荒波と海食崖、東西を深い谷に囲まれた天険の要害に位置し、山頂の主郭(本丸)を中心に痩せ尾根上に二の丸、三の丸、帯曲輪群を階段状に配置した連郭式縄張を持つ。主郭背後の尾根筋を断ち切る深大な大堀切や斜面に穿たれた竪堀、一部に遺存する石垣(野面積み石積み)、曲輪を取り巻く土塁、険峻な切岸、籠城用井戸跡が極めて明瞭に残存する。賀田湾に出入りする廻船や水軍航路を眼下に直下監視できる位置にあり、熊野沿岸部における中世海城の典型的構造を今に伝えている。
歴史的役割
東紀州沿岸における水運・漁業権益を掌握した在地領主・曽根氏累代の本拠地であり、戦国期における熊野水軍の勢力争奪および織田・堀内抗争の激戦の舞台となった。曽根氏は伊勢志摩の北畠氏や熊野新宮の堀内氏など周辺大勢力の間で巧みに自立を保っていた。しかし天正10年(1582年)、熊野一帯の統一を進める新宮城主・堀内氏善が大軍を率いて賀田湾へ侵攻。城主・曽根弾正忠は城に籠もり頑強に迎撃したものの、圧倒的な戦力差の前に激戦の末に落城し、曽根氏は討死または没落した。城は堀内氏の支配下に置かれたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐やその後の紀州一揆鎮圧を経て、近世城郭の整備に伴い廃城となった。黒潮洗うリアス式海岸の湊を扼し、在地領主の興亡と熊野水軍防衛網の実態を物語る貴重な遺跡である。
見どころ
賀田湾を見下ろす山頂に削平された広大な「主郭(本丸跡)」および尾根沿いに連なる「二の丸・三の丸」の削平曲輪群、背後尾根からの進入を厳重に封殺する深大な「大堀切」および斜面に落ちる「竪堀」遺構、主郭縁辺部などに現存する中世海城の「野面積み石垣(石積み)」および「土塁」痕跡、山腹を急峻に削り落とした威圧的な「切岸」と山頂付近の「井戸跡」、山頂展望所から眼下に広がる賀田湾のコバルトブルーの海・曽根港・熊野灘および紀伊山地の山並みを一望する絶景パノラマ、登城道沿いに建立された尾鷲市指定史跡標柱および縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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