概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
九曲城(くまがりじょう)は、三重県松阪市飯高町粟野に所在する櫛田川中上流域北岸に突き出た標高約310メートル(比高約120メートル)の急峻な山稜頂部に築かれた中世山城跡である。通称「粟野九曲城」「粟野城」。南伊勢の国司・北畠氏の重臣である加茂義長が本拠として築いたと伝わる。南面直下を流れる櫛田川の急流と険阻な断崖を天然の堀とし、山頂の主郭を中心に尾根筋沿いに複数の郭を直線階段状に配置した連郭式縄張を持つ。背後からの敵の侵入路となる痩せ尾根には深大な堀切が掘削され、山腹斜面には敵の横移動を封殺する竪堀や急峻な切岸、主郭縁辺の土塁跡が良好に残る。大和国(吉野)と伊勢国を結ぶ要衝街道(和歌山街道)および櫛田川沿いの水陸交通路を直接監視・統制できる戦略的要衝に位置し、中世南伊勢における山間要塞の堅牢な土木構造を今日に伝えている。
歴史的役割
伊勢国司北畠氏の西山間防衛線(飯高郡・多気郡)における最重要拠点であり、織田信長による伊勢侵攻戦において激動の歴史的役割を果たした。城主の加茂氏は北畠氏の譜代被官として飯高・粟野一帯を領有し、大和境の監視と街道警備を統括した。永禄12年(1569年)の織田信長による南伊勢侵攻(大河内城の戦い)では北畠具教・具房父子を支援。その後、和睦条件として信長の次男・織田信雄が北畠氏の養子に入ったが、天正4年(1576年)の「三瀬の変」で信雄派が具教ら一族を暗殺すると、加茂氏をはじめとする北畠旧臣は激しく反発した。信雄軍の徹底的な掃討戦・弾圧により加茂氏も抗戦の末に没落し、城も役割を終えて廃城となった。戦国大名北畠氏の山岳支配網の実態と、織豊政権による旧勢力解体・領国再編の過酷な過程を如実に証言する貴重な遺跡である。
見どころ
櫛田川沿いの山麓から比高120mの山頂に整然と段状に削平された「主郭(本丸跡)」および連なる「副郭群」、背後尾根からの進入を鋭利に遮断した深大な「堀切」および斜面に掘削された「竪堀」遺構、主郭縁辺部に遺存する防衛用の「土塁」および山腹を削り落とした険峻な「切岸」、南直下を深くえぐり天然の水堀として機能した「櫛田川の渓谷景観」、標高310mの山頂から眼下に見晴らす和歌山街道(国道166号)の街並みおよび飯高町粟野の山間盆地・台高山脈連峰の大パノラマ眺望
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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