概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 石垣あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
田辺城(たなべじょう)は、和歌山県田辺市上屋敷三丁目に所在する会津川の河口左岸と田辺湾に面した低平地(標高約4メートル)に築かれた紀伊田辺藩安藤氏3万8千石の居城(平水城)跡である。通称「錦水城」。田辺市指定史跡(田辺城水門跡)。慶長11年に紀伊新宮領主・浅野幸長が湊城として築き家臣の浅野知近を置いたことに始まり、元和5年に徳川頼宣の紀州入封に伴い紀州藩付家老・安藤直次が入城。直次は城郭を大規模に改築・拡張し、内堀・外堀を穿ち石垣を整備した。本丸には重厚な表御殿・奥御殿や櫓が並び、会津川と田辺湾の水を引き入れた水城構造を形成。明治の廃城令で堀は埋め立てられ宅地化したが、会津川に面して舟入用のアーチ状開口部を遺す精巧な石造水門跡や、本丸石垣、殿井戸が良好に現存している。
歴史的役割
江戸幕府親藩・紀州徳川家の筆頭付家老を務めた安藤氏16代(明治維新まで)の政庁・軍事拠点であり、紀伊半島南部の統治と熊野街道・西廻海運の監視を担った。安藤直次は徳川家康の信任厚い旗本出身で、大坂の陣でも活躍し頼宣の補佐役として田辺3万8千石を拝領。紀州藩の南の防波堤として黒潮洗う田辺湾の水運・海防に睨みを利かせた。幕末の慶応4年(1868年)、紀州藩から独立して正式に「紀伊田辺藩」として立藩を認められたが、わずか3年後の明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となった。城下町は外敵の侵入を遅らせるため全ての辻がT字路(丁字路)で交差する防衛設計が施され、現在もその街並み遺構が色濃く残る。紀州藩付家老城郭の形態と幕府海防政策を物語る重要な水城遺跡である。
見どころ
会津川に面して良好に現存し船の出入りと水位調整を兼ね備えた全国的にも極めて珍しい石造遺構「田辺城水門(田辺市指定史跡)」、錦水公園および上屋敷三丁目の民家・駐車場境界に残る「本丸残存石垣」、錦水城の別名の由来とも伝わり藩主や城代家老が重用した本丸名水「殿井戸(井戸跡)」、会津川河口と田辺湾が合流する天然の水堀・水軍停泊地「湊の景観」、城下町の防衛のため意図的にT字路が連続して配置された「上屋敷・城下町割」、南方約1kmに位置する南方熊楠旧邸・顕彰館、水門前に設置された田辺市指定史跡標柱および縄張図付き解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。