概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
窪川城(くぼかわじょう)は、高知県高岡郡四万十町西原に所在する高南台地・窪川盆地西縁に突出した標高約280メートル(比高約50メートル)の尾根頂部に築かれた中世山城跡である。通称「西原城」「城山」。四万十町指定史跡。南北朝期に美濃国から下向した土佐一条氏配下の在地領主・窪川俊光が築いたと伝わる。盆地を流れる四万十川源流部を天然の水堀に見立て、東へ張り出した尾根筋に主郭(詰の段)を中心に二ノ段、三ノ段を段状に配した連郭式縄張を持つ。背後の山稜側は深大な堀切で完全に遮断され、急傾斜の山肌を削り落とした切岸や竪堀、曲輪縁の土塁が極めて良好に遺存している。平時の居館を山麓に置き、有事の詰城として機能した。長宗我部元親の中山間部平定に伴い開城し、四国平定期を経て廃城となった。現在は地元により遊歩道や見晴らし台が整備され、窪川盆地を一望できる。
歴史的役割
高南台地(窪川郷)の穀倉地帯および伊予・土佐を結ぶ街道(松山街道・中村街道)の結節点を扼した在地有力国衆・窪川氏歴代の軍事拠点である。戦国期の土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる豪族や幡多郡の一条氏らが覇を競う群雄割拠の時代であったが、窪川氏は一条氏の勢力下に属して仁井田五人衆(窪川氏、東氏、西原氏ら仁井田郷の有力土豪)の一角として重きをなした。元亀から天正年間にかけて、岡豊城から破竹の勢いで土佐統一を進める長宗我部元親が南西へ進出すると、窪川城主・窪川俊光(玄蕃頭)らは抵抗を試みるもやがて元親の軍門に降った。降伏後の窪川氏は長宗我部氏の幡多郡侵攻(一条兼定攻め)や四国統一戦の先鋒として軍役を担うこととなった。土佐中央部と幡多地方・南予地方を繋ぐ中継戦略要衝としての歴史的意義を持ち、高知内陸部の山城構造を今に伝える貴重な遺跡である。
見どころ
城山背後の尾根筋を鋭利かつ深大に掘削して敵の侵入路を遮断した圧巻の「堀切」および斜面に落ちる「竪堀」遺構、主郭(詰の段)周囲に明瞭に残る「土塁」および山肌を削り落とした急峻な「切岸」、東西の尾根沿いに段状に連なる「二ノ段・三ノ段」の削平曲輪群、標高280mの主郭見晴台から眼下に広がる窪川盆地・四万十川上流域・JR窪川駅市街地を一望する大パノラマ眺望、山麓に位置する中世在地武士の生活空間「根小屋・居館跡」、四国霊場第37番札所「岩本寺」と連携した門前・城下集落景観、登山口および主郭に設置された四万十町指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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