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100名城・続100名城 -
別称 城山要害、宮崎要害、城山、宮崎城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 248.3m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者宮崎太郎長康(宮崎氏)
築城年平安時代末期(治承・寿永年間・1180〜1184年頃、戦国期上杉氏改修)
廃城年天正13年(1585年)富山征伐後に前田氏支配下で廃城
主な城主宮崎氏、椎名氏、上杉氏、佐々氏、前田氏
指定文化財都道府県指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:248.3m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

宮崎城(みやざきじょう)は、富山県下新川郡朝日町宮崎に所在する北陸道最大の難所「親不知・子不知」西端の日本海に面した峻険な独立山稜(標高約249メートル、比高約240メートル)山頂部に築かれた古代・中世の山城・海城跡である。富山県指定史跡。治承・寿永の乱(源平合戦)において木曾義仲に呼応し北陸宮を奉じて挙兵した在地豪族・宮崎太郎長康によって築かれたと伝わる。日本海と険しい山岳が迫る天然の要害で、最高所の本丸(主郭)を中心に二の丸、三の丸、西の丸、南郭など大小多数の郭を連郭・梯郭状に配置。背後や尾根筋を断ち切る深大な大堀切、斜面に穿たれた竪堀群、主郭縁辺の土塁、威圧的な切岸、湧水井戸跡が極めて明瞭に残る。越後と越中の国境および日本海沿岸航路を直接睥睨・遮断できる位置にあり、上杉謙信による越中侵攻の最重要橋頭堡としても改修・拡張された。

⚔️ 歴史的役割

越後・越中国境の軍事・交通の咽喉を扼する要衝であり、源平争乱から南北朝、戦国期の上杉・織田抗争に至るまで常に最前線拠点として歴史的役割を果たした。平安末期には木曾義仲軍の上洛作戦を支える軍事的拠点となった。戦国期には新川郡の国人・椎名氏の支配下にあったが、越後の上杉謙信が越中侵攻を本格化させると永禄年間に上杉方の直轄拠点となり、謙信自ら当城に入って新川平野・富山方面への出撃拠点とした。謙信没後は織田信長配下の佐々成政と上杉景勝が激しい争奪戦を展開。天正11年(1583年)には成政によって奪取されたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による富山征伐で成政が屈服すると前田利家の領掌下に入り、境目の城としての役割を境城などへ引き継いで廃城となった。北陸国境の軍事防衛網の変遷を証言する第一級の山城である。

👀 見どころ

日本海を眼下に見下ろす標高249mの山頂に削平された「本丸跡(主郭)」および尾根沿いに連なる「二の丸・三の丸・西の丸」の重厚な曲輪群、尾根続きからの侵攻を峻険に断ち切る深大な「大堀切」および斜面に落ちる「竪堀群」・「空堀」遺構、主郭縁辺部に明瞭に残る「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、長期籠城を支えた山頂付近の「井戸跡」、山頂展望広場から眼下に広がる日本海・ヒスイ海岸・遠く能登半島および親不知の断崖絶壁・北アルプス連峰を望む大パノラマ絶景、登城道沿いに建立された富山県指定史跡標柱・木曾義仲公ゆかりの北陸宮御所跡碑・詳細な縄張解説案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺10km圏内の城郭(0城)

※半径10km以内に登録されている他の城郭はありません。

🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

あいの風とやま鉄道線越中宮崎駅から南へ徒歩約30分、宮崎城山登城口(宮崎遊歩道入口)より本丸跡まで徒歩登山約15〜20分(下新川郡朝日町宮崎字城山・富山湾および親不知西端臨海独立山稜頂部一帯、主郭標高約249m、日本海海面比高約240m)

車でのアクセス

北陸自動車道 朝日ICから国道8号経由で東へ車で約15分、または親不知ICから西へ約15分

駐車場

有(城山山頂園地駐車場・ヒスイ海岸観光駐車場、普通車無料約30台)

📍 周辺地図

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