概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
宮崎城(みやざきじょう)は、富山県下新川郡朝日町宮崎に所在する北陸道最大の難所「親不知・子不知」西端の日本海に面した峻険な独立山稜(標高約249メートル、比高約240メートル)山頂部に築かれた古代・中世の山城・海城跡である。富山県指定史跡。治承・寿永の乱(源平合戦)において木曾義仲に呼応し北陸宮を奉じて挙兵した在地豪族・宮崎太郎長康によって築かれたと伝わる。日本海と険しい山岳が迫る天然の要害で、最高所の本丸(主郭)を中心に二の丸、三の丸、西の丸、南郭など大小多数の郭を連郭・梯郭状に配置。背後や尾根筋を断ち切る深大な大堀切、斜面に穿たれた竪堀群、主郭縁辺の土塁、威圧的な切岸、湧水井戸跡が極めて明瞭に残る。越後と越中の国境および日本海沿岸航路を直接睥睨・遮断できる位置にあり、上杉謙信による越中侵攻の最重要橋頭堡としても改修・拡張された。
歴史的役割
越後・越中国境の軍事・交通の咽喉を扼する要衝であり、源平争乱から南北朝、戦国期の上杉・織田抗争に至るまで常に最前線拠点として歴史的役割を果たした。平安末期には木曾義仲軍の上洛作戦を支える軍事的拠点となった。戦国期には新川郡の国人・椎名氏の支配下にあったが、越後の上杉謙信が越中侵攻を本格化させると永禄年間に上杉方の直轄拠点となり、謙信自ら当城に入って新川平野・富山方面への出撃拠点とした。謙信没後は織田信長配下の佐々成政と上杉景勝が激しい争奪戦を展開。天正11年(1583年)には成政によって奪取されたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による富山征伐で成政が屈服すると前田利家の領掌下に入り、境目の城としての役割を境城などへ引き継いで廃城となった。北陸国境の軍事防衛網の変遷を証言する第一級の山城である。
見どころ
日本海を眼下に見下ろす標高249mの山頂に削平された「本丸跡(主郭)」および尾根沿いに連なる「二の丸・三の丸・西の丸」の重厚な曲輪群、尾根続きからの侵攻を峻険に断ち切る深大な「大堀切」および斜面に落ちる「竪堀群」・「空堀」遺構、主郭縁辺部に明瞭に残る「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、長期籠城を支えた山頂付近の「井戸跡」、山頂展望広場から眼下に広がる日本海・ヒスイ海岸・遠く能登半島および親不知の断崖絶壁・北アルプス連峰を望む大パノラマ絶景、登城道沿いに建立された富山県指定史跡標柱・木曾義仲公ゆかりの北陸宮御所跡碑・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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