概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | あり(伝:佐和山城千体仏・彦根城内等、清涼寺方丈等移築伝承) | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:佐和山城門、先:彦根城太鼓門櫓・長浜市宗安寺赤門等伝承) |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
佐和山城(さわやまじょう)は、滋賀県彦根市古沢町に所在する琵琶湖東岸に聳える標高約232メートル(比高約140メートル)の独立峰・佐和山山頂部に築かれた中世・織豊期の山城跡である。鎌倉初期に近江守護・佐々木定綱が砦を築いたことに始まると伝わり、戦国期には浅井氏家臣・磯野員昌の堅守で知られた。織田信長平定後は丹羽長秀らを経て、天正19年(1591年)に豊臣五奉行の筆頭・石田三成が入城。五層天守を誇る壯麗な織豊系近世城郭へと大改修された。山頂の本丸(主郭)を中心に西の丸、千間櫓、太鼓丸、法華丸、鳥居本口、侍屋敷群が巧みに配置された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、井伊直政が入城したが、彦根城築城に伴い建物や石垣に至るまで徹底的に破却・資材転用(佐和山落とし)された。現在も山中には破却を免れた野面積み石垣断片、深大な堀切、切岸、土塁、千間櫓跡、井戸跡が残る。
歴史的役割
東山道(中山道)・北陸道が分岐する陸上交通の咽喉部と琵琶湖水運を一挙に制圧する軍事・政治の超最重要拠点として天下の帰趨を左右した。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほど壮麗な城郭であったが、関ヶ原合戦後に小早川秀秋らの猛攻により落城。城内を接収した徳川方の武将たちが、華美な金銀財宝を期待したのに対し、城内は極めて質素倹約で壁は荒壁のままであったという三成の清廉潔白を物語る逸話が残る。その後、徳川四天王の井伊直政が18万石で入城。直政は合戦の傷が元で当城にて死去し、跡を継いだ直継(直勝)らは三成の残影を嫌い、また山城の限界から近隣の彦根山(金亀山)に新たな天下普請の城「彦根城」を築城。佐和山城は徹底的に破却され、天守材や石垣・城門の多くが彦根城へ移築・転用された。
見どころ
佐和山山頂の最高所に削平された広大な「本丸跡(主郭)」および「西の丸・千間櫓・太鼓丸」の曲輪群、徳川方による徹底的な城割り(破却)を奇跡的に免れて山腹や曲輪縁辺部に露出・遺存する「野面積み石垣」痕跡、尾根筋を峻険に断ち切る深大な「堀切」および斜面に刻まれた「竪堀」・「切岸」遺構、本丸下の「古井戸跡」および大手口の枡形虎口地形、本丸展望所から見渡す彦根城天守・琵琶湖の雄大な湖面・伊吹山・荒神山・彦根市街地の大パノラマ絶景、山麓の石田三成公居館跡(龍潭寺・宗安寺等の寺町)および三成公供養塔、佐和山城址石碑・彦根市教育委員会設置の解説案内板