概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | 独立式 | 天守形式 | 望楼型 |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | あり(元:城門、先:市内光岳寺山門) |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・石垣あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
鳥羽城(とばじょう)は、三重県鳥羽市鳥羽三丁目に所在する鳥羽湾西岸に突出した標高約40メートル(比高約35メートル)の小高い独立丘陵(城山)頂部に築かれた織豊期海城・山水城跡である。三重県指定史跡。織田信長・豊臣秀吉に仕えた志摩水軍(九鬼水軍)の総帥・九鬼嘉隆が文禄3年(1594年)に築城した。大手門を陸側ではなく直接海に向けて開き、城の周囲三方を海に囲まれた天然の海城構造を持ち、海上に浮かぶ姿から「錦城」「浮城」とも称された。山頂の本丸(主郭)を中心に二の丸、三の丸を段状に配し、本丸には三重天守が聳えていた。現在も本丸周囲を固める織豊期特有の野面積み高石垣(天守台・桝形虎口石垣)が良好に遺存するほか、本丸直下の空堀・堀切、海食崖を削り落とした切岸、籠城用井戸跡が残る。海に向かって城門を開く全国的にも極めて珍しい水軍城の典型例である。
歴史的役割
伊勢湾口および志摩半島の海運・防衛を一手に掌握する水軍総司令部であり、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)における水軍出撃拠点として機能した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与した築城者・九鬼嘉隆に対し、実子・九鬼守隆は東軍(徳川方)に属し、当城を巡って親子による壮絶な海戦・攻城戦が勃発。戦後に守隆が家康から助命を取り付けたものの、嘉隆は答志島で自刃した。守隆は当城を受け継ぎ鳥羽藩を立藩したが、その後の内紛により九鬼氏は丹波綾部・三田へ転封。江戸中期以降は稲垣氏が3万石で入封し、明治維新まで代々鳥羽藩政の中枢を担った。九鬼水軍の根拠地から近世幕藩体制下の譜代大名陣屋・城郭へと変遷を遂げた、日本城郭史上最高峰の水軍要塞遺跡である。
見どころ
城山公園として整備された「本丸跡(主郭)」および二の丸・三の丸の平坦面遺構、本丸縁辺部に堂々たる姿で遺存する九鬼氏時代の武骨な「野面積み高石垣」および「天守台石垣」・「桝形虎口石垣」、大手門を海に向けて開いていた水軍城ならではの縄張構造、山頂から見下ろす風光明媚な鳥羽湾・答志島・三ツ島・鳥羽水族館および伊勢湾口のパノラマ絶景、本丸跡に遺存する籠城用の「古井戸跡」および空堀(堀切)痕跡、市内の菩提寺・光岳寺山門として移築現存する「旧鳥羽城門」、三重県指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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