概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。
概要
安祥城(あんじょうじょう)は、愛知県安城市安城町に所在する矢作川西岸の碧海台地東端部(標高約18メートル、比高約10メートル)に突き出た舌状台地に築かれた平山城跡である。安城市指定史跡。室町中期の永享年間に三河守護・畠山氏の被官である和田親平によって築かれたと伝わる。文明3年(1471年)、松平信光が奇襲により奪取して以降、親忠・長親・清康・広忠と続く松平宗家(安祥松平家)累代の本拠地となった。最高所の本丸(現・安祥神社)を中心に、北から東へ二の丸(現・大乗寺)、三の丸、西の丸を階段状・連郭状に配置。台地続きの西側および各曲輪間を深大な空堀・堀切で遮断し、東・南面の湿地泥濘地を天然の要害とした。現在も本丸周囲を取り巻く重厚な土塁、深さ約5メートルに達する空堀(堀切)跡、切岸、古井戸跡が極めて良好に遺存している。徳川家康の祖先が飛躍を遂げた「徳川氏発祥・安祥松平家の故地」として名高い。
歴史的役割
西三河平野の米倉地帯と矢作川舟運を扼する軍事・政治の最重要拠点であり、織田信秀(信長生父)と松平・今川連合軍が激突した「安祥合戦(安城合戦)」の主戦場として戦国史にその名を轟かす。松平清康が岡崎城へ進出した後も最重要支城として機能したが、清康没後の天文9年(1540年)より織田信秀が侵攻。織田信広(信長庶兄)が城主となり占領した。これに対し天文18年(1549年)、今川義元の名代・太原雪斎率いる大軍が当城を猛攻(第三次安祥合戦)。城主・信広を生け捕りにし、当時織田方の人質となっていた幼少の竹千代(後の徳川家康)との「人質交換」を成立させた歴史的転換点となった。弘治元年(1555年)の蟹江城主・織田信友滅亡後、今川配下の松平氏が奪還。永禄5年(1562年)の清洲同盟により役目を終えて廃城となったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康が陣を敷き陣城として再活用された。
見どころ
安祥城址公園として整備され安祥神社境内となった広大な「本丸跡(主郭)」および大乗寺境内にあたる「二の丸跡」、本丸西側と二の丸の間を鋭利に分断する深さ約5m・幅約10m規模の圧巻の「本丸大空堀(堀切)」遺構、主郭縁辺部を巡り現在も高く聳える防衛用「高土塁」および台地斜面を削り落とした「切岸」、本丸跡に遺存する籠城用の「古井戸跡(本丸井戸)」、境内に堂々と立つ「安祥城址碑」および安城市教育委員会設置の解説案内板、隣接する安城市歴史博物館(発掘出土品展示や安祥松平氏の歴史展示)・安城市埋蔵文化財センター