概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 切岸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
鳴海城(なるみじょう)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町字乙子山に所在する扇川北岸の鳴海丘陵南端の舌状台地(標高約20メートル、比高約15メートル)に築かれた平山城跡である。応永年間に足利義満配下の安原宗房が築城したと伝わり、戦国期には織田氏と今川氏が尾張・三河境目の覇権を巡って熾烈な争奪戦を展開した。城域は本丸(現・城山公園および乙子山周辺)を中心に、東の丸、西の丸を尾根沿いに連郭状に配し、南面直下の扇川低地と入江(鳴海潟)を天然の水堀・防壁とした。周囲は市街地化が進んでいるが、城山公園や天神山天神社周辺に台地崖を削り落とした威圧的な切岸状段丘や土形が残り、城山公園の一角に「鳴海城址碑」および名古屋市教育委員会設置の解説板が建立されている。永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」において今川方の最前線死守拠点となり、織田信長が築いた包囲砦群(丹下砦・善照寺砦・中島砦)との間で演じられた攻防戦の舞台として全国的に著名である。
歴史的役割
尾張国南東部と三河国を結ぶ東海道および伊勢湾沿岸水運(鳴海湊)を直下に扼する軍事・交通の最重要要衝として戦国史を動かした。織田信秀に従っていた城主・山口教継は信秀没後に織田信長から離反し、今川義元へ寝返って城を明け渡した。信長は鳴海城を封じ込めるため周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦の三砦を築いて完全包囲。これに対し今川義元は永禄3年(1560年)5月、鳴海城救援を主目的の一つとして大軍を率いて尾張へ侵攻したが、桶狭間で信長の奇襲を受け敗死した。義元本隊壊滅後も鳴海城の守将・岡部元信(今川方名将)は頑強に籠城を継続。信長に主君義元の首級返還を条件に堂々と城を明け渡して駿河へ帰還した武節の美談は後世に語り継がれている。その後は織田家臣の佐久間信盛らが入城・管理したが、豊臣秀吉の天下統一期を経て廃城となった。
見どころ
城山公園内に建立された威風堂々たる「鳴海城址碑」および名古屋市教育委員会設置の歴史解説案内板、城山公園および天神社境内に遺存する台地突端部を利用した平山城特有の「切岸状段丘斜面」、城下町東海道鳴海宿の古い街並みと鳴海潟の旧海岸線地形、桶狭間の戦い前夜に織田信長が鳴海城を包囲監視するために周囲に築いた「丹下砦跡」・「善照寺砦跡」・「中島砦跡」の三砦遺構群との位置関係、近隣に鎮座する名刹・成海神社や瑞泉寺など今川・織田ゆかりの史跡群