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100名城・続100名城 -
別称 根古屋城、鳴海要害、城山、鳴海城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 15m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張平山城
曲輪配置連郭式
築城者安原宗房(中根忠実、山口教継、岡部元信改修)
築城年室町時代前期(応永年間・1394〜1428年頃安原氏、天文・永禄期大改修)
廃城年天正18年(1590年)小田原征伐後に廃城(江戸初期成海神社遷座)
主な城主安原氏、中根氏、山口氏、岡部氏、佐久間氏
指定文化財指定なし

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 切岸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:15m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

鳴海城(なるみじょう)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町字乙子山に所在する扇川北岸の鳴海丘陵南端の舌状台地(標高約20メートル、比高約15メートル)に築かれた平山城跡である。応永年間に足利義満配下の安原宗房が築城したと伝わり、戦国期には織田氏と今川氏が尾張・三河境目の覇権を巡って熾烈な争奪戦を展開した。城域は本丸(現・城山公園および乙子山周辺)を中心に、東の丸、西の丸を尾根沿いに連郭状に配し、南面直下の扇川低地と入江(鳴海潟)を天然の水堀・防壁とした。周囲は市街地化が進んでいるが、城山公園や天神山天神社周辺に台地崖を削り落とした威圧的な切岸状段丘や土形が残り、城山公園の一角に「鳴海城址碑」および名古屋市教育委員会設置の解説板が建立されている。永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」において今川方の最前線死守拠点となり、織田信長が築いた包囲砦群(丹下砦・善照寺砦・中島砦)との間で演じられた攻防戦の舞台として全国的に著名である。

⚔️ 歴史的役割

尾張国南東部と三河国を結ぶ東海道および伊勢湾沿岸水運(鳴海湊)を直下に扼する軍事・交通の最重要要衝として戦国史を動かした。織田信秀に従っていた城主・山口教継は信秀没後に織田信長から離反し、今川義元へ寝返って城を明け渡した。信長は鳴海城を封じ込めるため周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦の三砦を築いて完全包囲。これに対し今川義元は永禄3年(1560年)5月、鳴海城救援を主目的の一つとして大軍を率いて尾張へ侵攻したが、桶狭間で信長の奇襲を受け敗死した。義元本隊壊滅後も鳴海城の守将・岡部元信(今川方名将)は頑強に籠城を継続。信長に主君義元の首級返還を条件に堂々と城を明け渡して駿河へ帰還した武節の美談は後世に語り継がれている。その後は織田家臣の佐久間信盛らが入城・管理したが、豊臣秀吉の天下統一期を経て廃城となった。

👀 見どころ

城山公園内に建立された威風堂々たる「鳴海城址碑」および名古屋市教育委員会設置の歴史解説案内板、城山公園および天神社境内に遺存する台地突端部を利用した平山城特有の「切岸状段丘斜面」、城下町東海道鳴海宿の古い街並みと鳴海潟の旧海岸線地形、桶狭間の戦い前夜に織田信長が鳴海城を包囲監視するために周囲に築いた「丹下砦跡」・「善照寺砦跡」・「中島砦跡」の三砦遺構群との位置関係、近隣に鎮座する名刹・成海神社や瑞泉寺など今川・織田ゆかりの史跡群

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺の城郭マップ

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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

名鉄名古屋本線鳴海駅北口から北へ徒歩約7〜10分、城山公園・天神山天神社の境内および北側住宅地一帯(名古屋市緑区鳴海町字乙子山・字城山、鳴海丘陵南端部、主郭標高約20m、扇川低地比高約15m)

車でのアクセス

名古屋第二環状自動車道(名二環)有松ICから国道1号経由で西へ車で約10分、または名古屋高速3号大高線 笠寺出口から約10分

駐車場

有(城山公園前駐車場・天神社参拝者駐車場、普通車無料約10台)

📍 周辺地図

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