概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
桐山城(きりやまじょう)は、鳥取県岩美郡岩美町大字田後に所在する名勝・浦富海岸の西端、日本海に鋭く突出した標高約136メートル(比高約135メートル)の険峻な山頂部に築かれた中世山城・海城跡である。岩美町指定史跡。明応年間に因幡守護・山名氏の重臣である塩冶周防守が築城したと伝わる。北・西・東の三方を日本海の荒波と海食崖に囲まれた天然の要塞で、山頂の主郭(詰の丸)を中心に南へ伸びる痩せ尾根上に二の丸、三の丸、腰曲輪群を階段状に配した連郭式縄張を持つ。尾根筋には深大な堀切や竪堀が刻まれ、削平切岸や土塁、海防監視用の物見台跡、籠城用井戸跡が極めて明瞭に遺存する。天然の良港である田後港および浦富の湊を眼下に掌握する因幡屈指の水軍要塞であり、現在は山陰海岸ジオパークの景勝地として遊歩道が整備されている。
歴史的役割
因幡国東部(岩井郡)の沿岸警備および山陰道・日本海海運の要衝を統治した在地国衆・塩冶氏の本拠地であり、織田・毛利抗争の最前線として激動の役割を果たした。塩冶氏は出雲塩冶氏の庶流で、因幡守護山名氏に仕えて海運や漁業利権を統制した。天正年間、織田信長配下の羽柴秀吉が山陰平定を進めると、城主・塩冶周防守(高清・兵部少輔)は毛利方・吉川経家に呼応して鳥取城と連携し頑強に抵抗。天正9年(1581年)の秀吉による第二次鳥取城攻めにおいて、秀吉は因幡沿岸水運を遮断するため宮部継潤らの軍勢を派遣して当城を猛攻。激戦の末に落城し、塩冶氏は自刃または没落した。その後鳥取城開城を経て廃城となった。日本海航路を監視する海城・水軍基地の典型例であり、織豊期の中世城郭破却と境目支配の実態を今に伝える貴重な遺跡である。
見どころ
日本海に突き出た標高136mの主郭背後尾根を深大に遮断する「堀切」および斜面に落ちる「竪堀」遺構、山頂の「主郭(詰の丸跡)」および尾根筋に段状に連なる「二の丸・三の丸」の削平曲輪群、海食崖の険峻な地形を活かした威圧的な「切岸」および曲輪縁の「土塁」、長期籠城を支えた山上の「井戸跡」、山頂展望所から見渡す奇岩連なる浦富海岸(山陰海岸ジオパーク)・青く広がる日本海・田後港のパノラマ絶景、城下町・港町の面影を残す田後集落景観、登城道沿いに設置された岩美町指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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