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100名城・続100名城 -
別称 要害山城、穴水要害、城山、穴水城跡
城址碑 あり
案内板 あり
現存遺構 なし
復元遺構 なし
標高 62m
最終訪問日 —

📋 概要スペック

種別城郭
縄張山城
曲輪配置連郭式・梯郭式複合
築城者長谷部信連(長氏)
築城年治承4年(1180年)頃〜文治2年(1186年)頃(戦国期長氏改修)
廃城年天正5年(1577年)上杉謙信の能登攻略時に落城・廃城
主な城主長氏、畠山氏
指定文化財市町村区指定史跡

🏯 基本情報

天守平面構造なし 天守形式なし
現存御殿なし 再建御殿なし
現存櫓なし 再建櫓なし
現存蔵なし 再建蔵なし
現存門なし 再建門なし
現存土塀なし 再建土塀なし
移築御殿なし 移築櫓なし
移築蔵なし 移築門なし
遺構 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり

🗻 赤色立体地図・微地形判読

中心標高:62m (航空レーザ測量データによる微地形表現)
出典:全国Q地図 / 国土地理院
※淡色地図に傾斜量図・陰影起伏図を各透過率40%(不透明度60%)で合成

※ページ内では国土地理院の地形起伏図・傾斜量図(透過率40%合成)を表示しています。上のボタンをクリックすると、全国Q地図にてDEM1A(1mメッシュ)やDEM5Aなどの高精細な赤色立体地図を全画面で確認できます。

📜 概要

穴水城(あなみずじょう)は、石川県鳳珠郡穴水町字川島に所在する内浦の要衝・穴水湾西岸に突出した標高約95メートル(比高約85メートル)の要害山山頂部に築かれた中世山城・海城跡である。通称「要害山城」。穴水町指定史跡。平安末期に平家討伐の令旨を奉じた以仁王の挙兵で奮戦した名将・長谷部信連が、源頼朝から能登国大屋荘地頭職を与えられて入封し築いたことに始まると伝わる。奥能登と七尾湾を結ぶ水陸交通の結節点を扼し、山頂の主郭(本丸)を中心に東尾根および南尾根上に二の丸、三の丸、出丸、腰曲輪群を展開した連郭式縄張を持つ。尾根筋には深大な堀切や空堀、斜面に穿たれた竪堀、主郭を取り巻く土塁、険峻な切岸、籠城用井戸跡が明瞭に残存する。現在は城山公園として整備され、穴水湾を見下ろす長氏歴代の記念碑や土塁遺構が良好に保存されている。

⚔️ 歴史的役割

能登守護・畠山氏の筆頭重臣「畠山七人衆」に数えられた名門国衆・長氏累代の本拠地であり、戦国後期の能登覇権抗争において激動の歴史的役割を果たした。長氏は穴水湾を掌握して水軍力を誇り、能登内海の海上流通を統制した。戦国末期、能登畠山氏の家中実権を握った長続連・綱連父子は織田信長と同盟を結び親織田路線を推進。天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登平定のため大軍を率いて七尾城を包囲(七尾城の戦い)すると、続連・綱連らは七尾城本丸に籠城し、当穴水城には一族を残して防衛させた。しかし遊佐続光らの裏切りにより七尾城が落城して長一族百余名が虐殺されると、穴水城も上杉軍の総攻撃を受けて落城し廃城となった。その後、唯一生き残った長連龍が織田信長・前田利家に仕えて一族の復仇を果たし、加賀藩主家前田氏の筆頭年寄(八家)へと連なる契機となった記念碑的城郭である。

👀 見どころ

穴水湾を一望する山頂に削平された広大な「主郭(本丸跡)」および尾根筋に段状に連なる「二の丸・三の丸」の削平曲輪群、尾根続きからの進攻を鋭利に遮断する深大な「堀切」および斜面に掘削された「竪堀」・「空堀」遺構、主郭縁辺部に明瞭に残る防衛用の「土塁」および山腹を削り落とした威圧的な「切岸」、長期籠城を支えた山上の「井戸跡」、山頂展望広場から眼下に広がる穏やかな穴水湾の入江・ボラ待ちやぐら・穴水市街地・遠く七尾北湾を一望する絶好のパノラマ眺望、城山公園内に建立された「長谷部信連公像」および長氏一族顕彰碑・穴水町指定史跡標柱・詳細な縄張解説案内板

🍲 ご当地グルメ


おいど攻城記録


🧭 周辺の城郭マップ

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🚃 アクセス

公共交通機関でのアクセス

のと鉄道七尾線穴水駅から西へ徒歩約15〜20分、穴水城山公園登城口より本丸跡まで徒歩登山約5〜10分(鳳珠郡穴水町字川島字要害・穴水湾西岸要害山山頂一帯、主郭標高約95m、穴水湾平地比高約85m)

車でのアクセス

のと里山海道 穴水ICから県道113号穴水能登島公園線・県道262号経由で東へ車で約5分、または金沢市街地から車で約1時間30分

駐車場

有(穴水城山公園駐車場、普通車無料約30台)

📍 周辺地図

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