概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
広峰山城(ひろみねやまじょう)は、広島県庄原市西城町八鳥に所在する西城川の支流・八鳥川東岸に聳える標高約522メートル(比高約210メートル)の険峻な山稜頂部に築かれた中世山城跡である。通称「八鳥広峰山城」。備後北部の名族・久代宮氏(大富山城主)の一族または重臣によって、北方の伯耆境・出雲境を警戒する重要拠点として築かれたと伝わる。八鳥川を挟んだ西方には市指定史跡の蟻腰城(東兵部政幸居館)や有田山の館が位置し、相互に連携して防衛線を形成していた。山頂の主郭を中心に尾根沿いに複数の削平曲輪を段状に配した連郭式縄張を持ち、背後尾根を遮断する堀切や斜面に穿たれた竪堀、切岸、曲輪縁の土塁、籠城用の井戸跡が遺存する。中世たたら製鉄の物流路や陰陽連絡街道を扼する防衛拠点であった。
歴史的役割
備後北部・奴可郡(西城地方)を領有した国人領主・久代宮氏の北方防衛網における軍事中枢の一翼を担った。当城が位置する八鳥地区は、西城川流域から八鳥川を遡り道後山を越えて伯耆国(鳥取県西部)や備中国(新見方面)へと通じる古代・中世の要衝であった。戦国期、大富山城に拠る宮高盛・景盛らは大内氏、尼子氏、毛利氏の三大勢力の狭間で帰趨を迫られたが、北方の尼子氏勢力の南下侵攻を食い止めるため、前哨陣地として広峰山城や蟻腰城などの城砦群を八鳥川沿いに整備した。大永年間には宮氏の付家老・東兵部政幸が蟻腰城に入り周辺6ヶ村を領したが、のちに讒言により滅ぼされるなど内訌の舞台にも連動した。毛利元就の勢力下に入った後は毛利氏の陰陽平定戦を支える後方要塞として機能し、関ヶ原合戦後の毛利氏防長移封に伴い廃城となった。国境地帯における山岳防衛の構造を物語る遺跡である。
見どころ
八鳥川沿いの低地から比高210mの高所に位置し尾根筋を階段状に削平した「主郭および段状曲輪群」、背後尾根からの侵入を防ぐために鋭利に掘削された「堀切」および山腹斜面に落ちる「竪堀」遺構、山腹を急峻に削り落として防禦性を極限まで高めた「切岸」と曲輪縁の「土塁」、山頂付近に遺存し長期籠城を可能にした「古井戸跡」、八鳥川を挟んで対峙する西側の「蟻腰城跡(市指定史跡)」や「陣ヶ丸」と連携した中世城郭ネットワークの立地景観、標高522mの山頂から眼下に見下ろす八鳥の山間盆地および道後山連峰・中国山地の雄大なパノラマ眺望
ご当地グルメ
おいど攻城記録
周辺10km圏内の城郭(0城)
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