概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
虎丸城(とらまるじょう)は、香川県東かがわ市与田山に所在する讃岐平野東部と阿讃山脈の接点に聳える名峰・虎丸山(標高約417メートル、比高約370メートル)山頂部に築かれた東讃屈指の大規模中世山城跡である。通称「虎丸山城」。南北朝期に東讃の有力豪族・寒川光益が築いたと伝わり、寒川氏累代の詰城として機能した。釣鐘状に屹立する山容自体が天然の要害であり、山頂の主郭(本丸)を中心に東尾根および西尾根沿いに二の丸、三の丸、帯曲輪群を階段状に配置した連郭式縄張を持つ。尾根筋には深大な堀切や竪堀が掘削され、主郭周囲には野面積みの石垣(石積み)や土塁、険峻な切岸、籠城用井戸跡が良好に残存する。阿波と讃岐を結ぶ主要街道(白鳥街道)を眼下に扼する戦略的立地にあり、現在は登山道が整備され瀬戸内海を一望できる。
歴史的役割
東讃岐の旗頭である国人領主・寒川氏の本拠防衛ネットワークにおける最終軍事拠点であり、戦国期における三好氏の讃岐支配および長宗我部氏の四国統一戦の激戦の舞台となった。寒川氏は平時の居館である昼寝城を拠点としつつ、有事にはこの峻険な虎丸城に拠って東讃の覇権を維持した。戦国後期、三好長慶の弟・十河一存が東讃に進出すると寒川氏はその軍門に降り、城は三好・十河氏の阿讃連絡網の重要拠点として再編された。天正10年(1582年)、土佐の長宗我部元親が十河城や勝瑞城へ向け大攻勢を仕掛けると(中富川の戦い)、虎丸城も激しい攻防戦の末に落城または開城。長宗我部氏の四国平定および天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐を経て、生駒親正が讃岐に入封した際に破却され廃城となった。峻険な独立峰に築かれた中世山岳要塞の威容を今に伝える貴重な遺構である。
見どころ
標高417mの虎丸山山頂に削平された広大な「主郭(本丸跡)」および尾根筋に連なる「二の丸・三の丸」の曲輪群、主郭縁辺部などに現存する中世山城の「野面積み石垣(石積み)」遺構、尾根続きを鋭利に断ち切る「大堀切」および斜面に落ちる「竪堀」、山腹を急峻に削り落とした威圧的な「切岸」と主郭周囲の「土塁」、長期籠城を支えた山頂付近の「井戸跡」、山頂展望台から眼下に広がる東かがわ市街地・引田湾・瀬戸内海(播磨灘)および阿讃山脈連峰の大パノラマ眺望、山麓のとらまる公園に設置された虎丸城案内板および登山道入口の標柱