概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
金黒山城(かなぐろやまじょう)は、岡山県井原市美星町星田字城山に所在する吉備高原南端部、星田川とその支流に三方を囲まれた標高約374メートル(比高約80〜100メートル)の険峻な山頂部に築かれた中世山城跡である。通称「金黒城」「星田城」。井原市指定史跡。鎌倉末期の元弘の乱(1331年)の軍功により星田郷地頭職を得た備中三村氏の発祥・本拠の城(蔵光三村氏)と伝わる。山頂の南北に長い単郭主郭を中心に、北・東・西の三方に腰曲輪を巡らせ、特に北側尾根からの侵攻を警戒した技巧的な縄張を持つ。北背後には深大な堀切や斜面を掘削した畝状竪堀群(連続竪堀)、主郭周囲を防御する重厚な土塁、険峻な切岸、籠城用井戸跡が良好に残る。東方約1kmの蔵光には平素の政庁である三村氏居館跡(土塁・空堀現存)が位置し、中世国衆の詰城と居館の二元構造を示す。
歴史的役割
戦国大名・備中三村氏の根拠地である星田郷の軍事中枢であり、織田・毛利抗争の狭間で繰り広げられた「備中兵乱」の激戦地として重要な歴史的役割を果たした。三村氏は家親の代に成羽や備中松山へ進出したが、星田は一族の聖地として維持され、家親の叔父・三村為親(紀伊守)らが在城した。天正2年(1574年)、三村元親が毛利氏から離反して織田信長と結ぶと、毛利元就の遺志を継ぐ小早川隆景・吉川元春ら毛利軍主力が備中へ大挙侵攻。三村氏発祥の地である星田にも小早川勢が猛攻を仕掛けた。城主・三村為親は金黒山城に籠城して頑強に防戦したものの、圧倒的な兵力差の前に天正3年(1575年)に落城し為親は討死した。東麓の三村氏居館や法雲寺城などとともに灰燼に帰し、三村氏惣領家の滅亡とともに廃城となった。備中西部における中世土豪の勃興から戦国大名化、そして織豊政権期における敗亡の軌跡を克明に物語る貴重な遺構である。
見どころ
北側尾根からの侵攻を完全に遮断する深大な「大堀切」および斜面を鋭利に刻む「畝状竪堀群(連続竪堀)」遺構、主郭(本丸)の縁辺を取り巻く明瞭な「土塁」および山腹を削り落とした険峻な「切岸」、標高374mの頂部を平坦に削平した南北に長い「主郭跡」とそれを取り巻く「腰曲輪群」、山腹に遺存し籠城時の水源を確保した「古井戸跡」、山頂から見晴らす星田川流域の山間集落および吉備高原連峰の大パノラマ眺望、東方1kmの蔵光に遺存し土塁・堀が残る平時拠点「三村氏居館跡(城の内)」との連携景観、南麓登城口に設置された井原市教育委員会による解説案内板