概要スペック
基本情報
| 天守平面構造 | なし | 天守形式 | なし |
|---|---|---|---|
| 現存御殿 | なし | 再建御殿 | なし |
| 現存櫓 | なし | 再建櫓 | なし |
| 現存蔵 | なし | 再建蔵 | なし |
| 現存門 | なし | 再建門 | なし |
| 現存土塀 | なし | 再建土塀 | なし |
| 移築御殿 | なし | 移築櫓 | なし |
| 移築蔵 | なし | 移築門 | なし |
| 遺構 | 空堀あり・竪堀あり・堀切あり・横堀あり・石垣あり・土塁あり・切岸あり・井戸あり | ||
赤色立体地図・微地形判読
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概要
海部城(かいふじょう)は、徳島県海部郡海陽町鞆浦に所在する海部川河口北岸と太平洋(鞆港)に面した標高約64メートル(比高約60メートル)の独立丘陵「城山」頂部に築かれた中世山城・海城跡である。通称「鞆城」。海陽町指定史跡。室町期に阿波南部を領した国衆・海部友光が築いたと伝わる。南を海部川水系、東を紀伊水道・鞆浦の良港に囲まれた天然の海城要害で、山頂の主郭(本丸)を中心に東ノ丸、西ノ丸、南ノ丸を配した縄張を持つ。天正5年(1577年)に長宗我部元親に攻略された後、天正13年(1585年)に蜂須賀家政が阿波に入封すると「阿波九城」の最南端の重要拠点に指定。家老・益田一正(益田内蔵助)が城番として入り、重厚な野面積み石垣を巡らせた近世城郭へと大改修された。現在は石垣、堀切、竪堀、空堀、土塁、井戸跡が極めて良好に遺存している。
歴史的役割
阿波・土佐両国の国境警備および紀伊水道西廻り航路を抑える水軍基地・防備拠点として中世から近世初頭にかけて決定的な軍事・交通の要衝であった。戦国末期には土佐の長宗我部元親が阿波侵略の第一歩として海部城を猛攻し、城主・海部友光を追放して阿波制圧の策源地とした。豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部勢が敗退した後は、阿波一国を与えられた蜂須賀氏が徳島城の防衛外郭線「阿波九城」の一角として最重視。土佐境を警戒するため重臣の益田一正に5,500石を与えて入城させ、海防と領内治安維持を担わせた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前後にも領内防衛の砦として機能したが、元和元年(1615年)の一国一城令によって破却され廃城となった。中世豪族の海城から織豊期・近世初期の石垣城郭への劇的な改修・発展プロセスを今に留める四国屈指の城郭遺跡である。
見どころ
本丸や二ノ丸の周囲に明瞭に遺存し阿波九城の威容を伝える蜂須賀氏(益田氏)改修期の豪快な「野面積み石垣」および「石段・虎口」遺構、山稜を深く掘削して敵の侵攻を断ち切った「大堀切」および山腹へ落ちる「竪堀」・「横堀(空堀)」、主郭周囲を取り巻く「土塁」と斜面を削り落とした険峻な「切岸」、城兵の命脈を支えた山腹の「井戸跡」、山頂本丸から見下ろす海部川河口・鞆港・青く広がる太平洋(紀伊水道・土佐湾境)の大パノラマ眺望、城下の風情ある港町・白壁通り(鞆浦の町並み)、登城口に設置された海陽町指定史跡標柱・詳細な縄張図付き解説案内板